||| 石黒康太郎さん ///「遊びをつくる」が仕事の当麻人。夢は仕事をつくり、ごちゃまぜの地域をつくること       

1980年、札幌市生まれ。福祉の道に入ろうと進んだ大学で、障害ある人を支える楽しさを知り、当麻町の施設で11年間、利用者と一緒に過ごしてきた。縁あって当麻町の振興公社に入り、まちづくりの世界へ。「これ、いけんじゃない?」「じゃあやりましょう」。スノーハイクやスノーシュー、鍾乳洞ナイトツアー…と矢継ぎ早に企画を打ち出し、やってみるという仕事を繰り返している。ただ自身は大きな「課題」を抱え、実現したいとっておきの「企画」を秘めているらしい。

高校3年の時、祖母が病気になり、ヘルパーが自宅に来るようになって高齢者福祉に興味をもった。道内の医療系の大学で実習に参加したが、コストや手間を惜しむことばかりが優先されていることに反発し、意見をして煙たがられた。紹介を受けて札幌で障害者ボランティアを始め、「こんな楽しい仕事をなんで知らなかったんだろう」と衝撃を受けた。施設で当直をして、明けてから授業に行くという生活を送った。

喜怒哀楽がストレートで、自分の感情に素直。自己防衛本能が強い。普段との些細な変化に気が付き、手を差し伸べる人もいる。「障害を持っている人にはかなわない。だから一緒に過ごしたい、働きたい」。そう思うようになり、卒業して2日後から当麻町の施設で働いた。

東日本大震災が発生し、北海道庁から派遣されて岩手県山田町の障害者支援施設でサポートした。「家族の助けがない利用者にとって、頼れるのは職員しかいない」と痛感。下の子どもが生まれたばかりだったが、自分の家族には「大きな震災があったら、みんなを置いて施設にいくから」と決意を伝えた。

年末年始に寄る辺のない利用者がいたら、一緒に年越しをした。帰省しだしたほかの利用者の動きが気になって調子を崩していた人も、妻の実家に招いて同じ時間を過ごすと、穏やかになっていくのが分かった。「この仕事をやってて良かった」と思えた。休みの日はバーベキューをしたり、屋久島に旅行に行ったりと、利用者第一の仕事をした。周囲からは「公私混同だ」と批判もあったが、意に介さなかった。

「『護ろう』という意味がある『介護』ではなくて、できることや得意なことをどう増やすかの『支援』。どうすればできるようになるか、という発想が大事で、行動や人生の選択肢は多いほうがいい」と言う。

当麻町に越してきてから、地域のイベントや団体の集まりには極力顔を出すようにしていた。地元の人が「見どころがない。なにもない。面白くない」と言うのならばと、面白いモノやコトを見つけようとした。人脈も広がっていき、人材の宝庫で、すぐに動けるコンパクトさがある当麻がどんどん好きになっていった。

2016年7月には「とうま振興公社」に転じ、20本近くの企画を放ってきた。「こういうのやりたいんだけど。これいけるんじゃない?」と言えば、周りから「だったらこうしたら?」とすぐボールが返ってきて、組織内で調整してすぐ試し、振り返って報告する。それをルーチンワークにしてきた。「自分が楽しいと思ったことを信じてやってきた。全部遊びから、新しい企画がうまれる。子どもの発想をもったおっさんの集まりなんですよ」とトレードマークの髭をさする。

実際のツアーやイベントでは、アウトドア全般の知識をフル稼働させて、子どもでは考えつかないようなリスク管理から、参加しやすい仕掛けまで手がける。雪上テントや、大樹のそばで、得意のコーヒーをいれて楽しませる。

地域づくりでは、「ごちゃまぜ」が一番いいと考えている。小さい町だからこそ町役場や公社、民間が垣根を越え、当麻以外の地域の人たちも巻き込んで一緒に動く。そして、それぞれの役割を認識し、意見をぶつけ合う。当麻町のまちづくりに関わって、初めて「強いチームってこういうことなんだ」と分かったという。

ごちゃまぜの地域をつくるには、障害のある人が楽しみ、力を発揮できる場所が必要だ。「例えば大雪山系の旭岳に登ろうと思ったら、それなりの準備やリスク管理がいる。でも当麻なら、もっと気軽に行けるフィールドがある。その時に、車いすを押すような仕事を障害のある人にやってもらうこともできる。当たり前に一般就労ができるようにしたい。障害を持っている人もない人も地域で仕事ができて、楽しく生活できるような町にしたい」

大学3年のとき、ボランティアで親しくなった障害のある女性が妊娠し、周囲から出産に猛反対されることがあった。「あたしと石黒と、何が違うの?」 そう聞かれた場面が、ずっと頭に焼き付いている。「生涯の課題。まだ答えを探してるんです」。全力で遊び、楽しんだ先の当麻にこそ、見つかるような気がしている。