線路の近くに大根が眠っている、という幸せ

知ってる人は知っている、ゲストハウスそばの自家菜園。稚内につづくJRの線路の脇に、細長~い畑が続いている。

そこで地元の人がいろんな野菜を育てていて、森さんはゲストハウス目の前で耕作をされている。もともとは線路の向こう側の60坪の土地でやっていたけれど、続けられない人がでてきて、声をかけられてここでもするようになったとか。

もう10何年も、農薬を使わず大根やネギ、とうきび(トウモロコシ)なんかを育てていて。管理人としてみれば、「いつかあそこで育てたい」「たべてみたい!」と思うのは当然のことで。

そう思っていたところに、森さんが声をかけてきてくれて、大根やネギをくれるようになった!

次男が森さんの畑に遊びに行って、大根の葉っぱをモシャモシャ食べ始めたのがきっかけけ(笑)それから何度も森さんは来てくれて、お裾分けしてくださる。

葉っぱはそのままでも食べられるし、炒め物にするとご飯が止まらない! 自家製の「牛乳漬け」なるものもいただいたけど、まろやかで甘くてこれまた美味! 酵素ジュースにしてもうまい!

こんな幸せなことはないなぁ~。

そして冬にむけて、ご厚意に甘えて、森さんの畑に大根を10本くらい、寝かせることにしたんです。雪が降ると天然の雪室になるので、お客さんが来たら一緒に掘り起こして、甘味を増した大根をゲストハウスで食す!

楽しみすぎて、本格的な冬が待ち遠しい★ 冬こそ北海道へ一気に向かってほしい~

daikon4

北海道・厚真町で次男と手を合わせる

苫小牧港から北海道に上陸。定刻の朝6時ごろから下船作業が始まる。10℃以上はあった気がするけど、本州よりは肌寒く感じる。

苫小牧港にて

このまま旭川に向かってもいいんだけど、一度現場を見ておかないといけないと思っていた厚真町へ。9月6日の胆振東部自身では、震源の近い厚真町で大規模土砂崩れの映像が、何度も何度もテレビで流れていた。規模感にいまいち実感がわかなかったけれど、行けるところまで行ってみようと。

下道をひた走って、安平町から現地をめざす。安平の手前では気温は5℃を切っていて、空気も草も美しかった。安平のまちなかは、車で流すかぎりは被害は確認できず。テレビではよく出てたけど・・・。

厚真町の役場はボランティアさんの拠点となっている感じで、自衛隊の車両がひっきりなしに往来してた。被害がひどかった吉野集落を目指すも、途中で通行止めになっていて、土砂かガレキか、頻繁に行き来するダンプ以外に車の姿もない。山の周辺は、生活がそのまま消えてしまっていた。

土砂崩れのすぐ近くまで行けるところがあったので、次男・陽己(はるき)とともに見に行く。献花もされてあって、一緒に手を合わせる。

「ここにはお家がいっぱいあったんだけど、大きな地震で潰されてしまって、たくさんの人が死んでしまったの」

一緒に手を合わせながらそう話すと、寒くて震えていた次男も幼児なりにいろいろ思うところがあったようで、後々になっても「ほっかいどうで、おおきなじしんがあったでしょ。あれでどしゃくずれがあったんだよ。いえもつぶれちゃったんだよ」と口にするようことが何回かあった。

阪神大震災を経験した自分としては、大きな災害があった場所にはできるだけ足を運びたいし、子どもにも見せたい。実際に車を降りて、歩いて目に焼き付けないと分からないことってあるだろうと思う。そして、いつこの命が危険にさらされるか分からない。だから、やりたいことをやろうと思う。

この後に寄った町内のセイコーマートでは、災害ボランティアの車が止まっていた。現場仕事っぽい人もたくさん朝ごはんを買っていて、まだまだセイコーマートの役割は大きそうだなと勝手に思った。

いま、厚真の廃材のレスキューとか、いろんな動きがでてきている。目を離さず、できるだけ参画していこう。

いよいよ本州の最終日

(つづき)

陸前高田のまちなかを見た後は、奇跡の一本松(レプリカ)を横目に見て、久しぶりに気仙沼へ出かけることに。スイスイと進んで、お店の集積している漁港の近くの高台に上ると、一度見てみたかった「気仙沼ニッティング」のお店「メモリーズ」にたどり着いた。

ほぼ日刊イトイ新聞の震災支援プロジェクトで2013年に株式会社として立ち上がり、手編みの商品を届けている。

メモリーズは土曜日の営業でこの日は開いていなかったけど、細い路地に、溶け込みつつも存在感のある青い建物が見えてきた。外観見ただけで、商品を手に取りたくなる。

次は開いてる時に来よう。気仙沼をでて、本当はそのまま三陸の海岸線をつたってフェリーが出る八戸へ向かいたいとこだけど、どうしても盛岡近郊で見たいところがあるので、内陸の東北道に戻って、北上の旅を再スタート。

次の目的地は、岩手県紫波町の「オガール」。

紫波中央という駅の真ん前に、広大な空き地があって、町が購入したものの塩漬けになっていて、そこに「オガール(=東北の方言で「育つ」)プロジェクト」が立ち上がって、ぐんぐんと育ってきたまち。民間がリードして補助金に頼らず公共空間をつくっているのが特徴で、移転した町役場や体育館、保育所、テナントのショップ、企業オフィスが張り付いている。周辺は分譲住宅もあるし、コンパクトなまちづくりが進められている。小さな子どもから学校帰りの高校生、お年寄りまでもがオシャレなベンチで寛いでるのを見ると、こっちまで幸せな気分になってくる。

視察が相次ぎ(この日もどこかの議会が視察してた)、まちづくりや公民連携の分野では、最も有名な事例と言えるくらい。断熱や自然エネなどエネルギー面でも先進的な試みがふんだんにあって、もうほんとにすごいところ。

1時間ちょっとしかいられなかったけど、一見にしかずなので満足。本州にいるのもあとわずか。東北道に戻って車を北に走らせていると、「ああ、こっちに戻るのはどれくらい後になるのかなあ」と妙な感慨にふけってしまう。

19時すぎには八戸港のフェリーターミナルに到着。

食堂で夜ご飯をすませて、22時発、苫小牧行きのフェリーに乗り込む。このシルバーフェリーは初めてで、ことし春には室蘭から宮古の新航路もできている。この日の「シルバークィーン」はなかなか年季が入っていてお風呂も小さかった。

出港前に子ども3人を男風呂に入れて、疲れさせて雑魚寝の2等部屋で早々と寝かせようとする作戦を立案。でも下の2人は興奮してなかなか寝付けず、特に2歳の次女は寝床で声を上げてしまうので、共用スペースでだましだまし時間をつぶすことに。自販機のアイスとか、ほんと余計で(笑)すぐ目がさめる。2等のお客さんが少なかったのが不幸中の幸いで、しかも同室のご婦人が「私たちのことは気にしないでね」と温かい言葉をかけてくださったのに救われた。。。けっきょく、何度も子供の声で起きて、揺れもあって、ほとんど大人は寝れずだったけど。。。

ともかくも10日未明、無事に北海道に上陸!!

(北海道への旅シリーズはこれでおしまい)

ドタバタの引っ越し&最後の夏休み

ドタバタしない引っ越しなんて経験したことないけど、今回ばかりはすごく特殊なケース。

前日になっても搬入日が決まらないまま、荷出しの10月5日がやってきた。

こちらも梱包が終わってなかったので偉そうなことは言えないけど、5日になって業者からようやく「12日になりました」と連絡が入った。

午後2時からの荷出し予定だったけど、午前中の現場が遅れたとかで到着は夕方5時に。現場のお兄さんたちはすごく気持ちの良い人で一生懸命やってくれたけど、いかんせん2人しかいない。これじゃあ、どうしたって遅れるよね。

普通に運び出せば2時間、最長でも3時間と聞いていて、マンションの部屋のオーナーの立ち会いをお願いしていたけど、「なんだ。全然だめだな、これ」と捨てゼリフを吐かれて流れてしまい、けっきょく作業が終わったのは23時5分。

この日は東京のゲストハウスで勉強する予定だったけど、途中の段階でレイトチェックアウト(+1000円)の25時も間に合わないことがわかって、泣く泣くキャンセル。

こういう時に頼れるのは、気のおけない友達しかいない。磐田に住む尾高家に夜9時すぎ。「ゲストハウスだめだったら、泊めてくれない・・・?」と妻から。みなちゃんは二つ返事でオッケーしてくれ、日付が変わったころに押しかけてしまいました。おつまみとゴミ袋をお土産に💦

けっこうぺちゃくちゃしゃべり、自分はソファーで寝させてもらって、翌朝は8時前に出発!わざわざ朝ごはんまで作ってもらって・・・。ありがとー。これから人生最後の夏休み、いってきます!

尾高家で記念写真

史上最大の断捨離

引越し前日の我が家の風景(恥)

浜松からの荷出し作業は10月5日と決まっていたものの、一週間前になっても旭川での搬入日が決まらず、それと関係ないけど作業も遅々として進まず。「子ども3人いるからなかなかね」「生活しながらだと限界あるよね」と温かい言葉をいただくけど、最大の理由は、本やノートや写真やらに気をとられるからであります。

「これ、取っといたら絶対あとで見返すと思う」「捨てるともったいない」

こういう思いがすぐ頭をもたげて、しばし鑑賞タイムに。これ、今までの引越しと同じダメなパターンで、時間だけがかかって一向にモノが減らない。

大学生のころ使ってたノートパソコン。データの移行とかで4時間くらいかかってしまった。懐メロがたくさん入っていたのも作業スピードを遅らせた

部屋が大きいとムダに荷物が多くなる。3LDKの浜松のマンションはモノを増やすのに格好の場所だったけど、今回は3トントラックで格安で運ぶので、かなり減らさないといけない。しかも「旭川公園」が完成した暁に住む管理棟は、5人家族が暮らすとは思えない狭小住宅。憧れの「小さな家」になる。だから、心を鬼にして断捨離することにした。

捨てる基準は、「浜松の3年間で一度も使っていないもの」「北海道に移ってこれがないと生活できないとは言えないもの」。作業すれば、ほとんどがいらないものだったことが分かってしまった。

だから仕事でお世話になったスイフトも、ノート類も、あっさりお別れ。社会人3年目くらいまでは、一冊1900円くらいした高級メモ帳「モレスキン」を使っていたので、隔世の感があるしもったいないとは思ったけど、歯を食いしばって。

お世話になったノート類の一部

クルマはさすがに売却代金や、所有するとした場合の運搬費・税金・保険・スタッドレスとかもろもろ計算したけど。ビッグモーターで10万円で売れたので、御の字ということで。寂しい気もするけど、これからの茨の道のことを思えば、ささいなこと。うん。

 

 

 

なんにも失わずに進もうなんて、無理でしょ

帰省の話のつづき。身内ネタです、すみません。

神戸市垂水区に住んでいる祖母に会いに行きまして。旭川に移住することをまだ伝えておらず、私の母も反応が怖くてなかなか言い出せなかったので、意を決してカミングアウトするのが最大のミッションだった。

焼き肉屋さんでお昼を食べて、生ビールで乾杯したあとに「秋に北海道に引っ越しするわ」と切り出した。すると祖母は、梅干しを口にいれた漫画のキャラみたいな表情をして、「えーーー」と、これまた漫画のように言った。

転勤だと直感したようだけど、移住して宿を始めることとかを、こちらとしては丁寧に説明したら、いよいよ驚きを深めて、ひ孫たちに向かって「もうなかなか会えなくなるかなぁ」とぼやく。

距離が生まれることでショックを受けてしまわないか、妻・茜も自分の母もかなり前からかなり心配していた。これまでも帰省すると、茜は「おばあちゃんの喜んでる顔を見ると、すぐに移住というのは・・・」と漏らすことがあった。

ほんとその通りだと思うし、かなり初期からもちろん自分なりに考えてきた。孫を溺愛している母や祖母が悲しむのが好きな子どもなんていないし。

でも、本当にやりたいことがあるなら悩んでも答えがブレるわけないし、あえてドライに言うなら、母や祖母亡き後も自分や子どもたちは生きるわけで、その人生を豊かにするんであれば、えいや!でやらんといかん。 と、言い聞かせてきた。 もっとキツい言い方をするなら、母や祖母のために生きているわけではないので、その順番は間違っちゃいけない。と、言い聞かせてきた。少し心を鬼にして。覚悟が試されてる、とも思っていたので。

自分たちが本当に活き活きと新しい人生を楽しんで、その姿を見せることで母や祖母たちを幸せな気分にさせたほうが、長い目でみて、みんなにとっていい。そしてそのためには、しっかり軌道に乗せて、必要以上に寂しい思いをさせないように、ある程度、飛行機で関西・瀬戸と北海道を行き来できるようにしたい。そのように思うに至ったのであります。

焼き肉屋さんから帰って、祖母は母や妻といろいろ話して、けっきょくは「自分のやりたいことをやるのが一番や」「子ども(ひ孫)のことを考えて、ならそうるのがいいやんね」というところで落ち着いたようで。自分に言い聞かせているのかもしれないけど、額面通りに受け取ろうと思った。

たぶん、孫の決断を信じてくれてるんだろなー。祖父もそうだったし。

とにかく長生きしてもらって、とにかく楽しくやってるところを見せたいとやる気がみなぎってきた!

半分、自分ごと。

NHKの連ドラって不思議。毎日見てるわけじゃないのに、たまたま目にした時に、記憶に残るシーンや言葉がけっこうある。会社で当直勤務している時なんか、NHKつけっぱなしなんで、けっこうちゃんと見入ってしまう。

今朝3日は一場面だけ見た。ヒロインと同じように涙した。

前後関係がよく分からないけど、鈴愛(すずめ)が漫画家をやめるかどうか、っていう瀬戸際にいるらしく。公園で座って、中村雅俊演じる祖父の仙吉に電話をかけている。

鈴愛が漏らす。「まーあかんかもしらん」。そーかー、みたいな感じであっさりと返す仙吉は、今後のこととして、「このご時世、どうやったって生きていけるぞ」とアドバイスする。

なんか自分に言ってくれてるようで、これだけでもグッとくる。でもこの後がほんとうに素晴らしい。

仙吉は、初めて人に話すという、戦中の体験談を鈴愛に伝える。捕虜にならないように地元の人にかくまってもらった。場所は日の当たらない穴蔵。でも1日に15分だけ、太陽の光が差し込んでくるという。24時間のうちの、15分。

仙吉は語り始める。「15分、光が差すだけで、人はそれを楽しみに生きていける」。こちらの涙腺はすでに崩壊寸前。

どういうことなのか、さらに優しく、易しく、孫に教える仙吉。「どうにでもなるぞ。大丈夫やってことや。人間はな、強いぞ」

「ほっか」と泣きながらうなずく鈴愛。仙吉が「鈴愛はことのほか、強いぞ」と続けると、「ほっか。知らなんだ」と、またうなずく。そして弦を張り替えたばかりのギターで、「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌いだす。

こんな愛情深いやりとりってあるんだろうか・・・。自分にもし孫ができたら、こんな場面を演じてから死にたい。

ところで、鈴愛が仙吉と話す場に選んだのが、公園だったことは見逃せない! 自宅でも職場でもない、サードプレイス(第3の場所)。内省し、自分と向き合い、さらけ出す場所なんだな~。ほっとする公園って、まさにそういう所だと思うわ

 

子どもの数が少ないとラク、ってことはない

この週末は長男の大滋(たいし、12歳)と次男の陽己(はるき、4歳)が、兵庫県西宮市の自分の実家へ、お泊り遠足に行った。親から離れる、初めてのチャレンジ! 母(子どもたちから見たらばあば)が浜松へ来て、連れていくことに。

みんなで天竜川駅から電車で浜松駅へ。一番下の七海(ななみ、2歳)がつり革を持ちたがるので、抱っこしていると、中学生か高校生かの男子が、照れくさそうに「代わりましょうか?」と席を譲ることを申し出てくれた。

すぐ駅に着いてしまうし、どうせ七海が落ち着かないだろうしと、「いいですよ、ありがとね」と断ってしまった。でもこういう時は素直に譲ってもらったほうが善意を無駄にしないかなー、しまったなーと悶々としてしまった。こういうことも車じゃ考えないから、まあよしとしよう。

新幹線ホームに上がる。男の子2人はちょっと不安げな顔になりながらも、車内の席に着いてしまえば笑顔で出発。七海は「ななもー!」と予想通り騒いだので、忍ばせておいたアンパンマングミで落ち着かせた。

ここからは、貴重な親子3人の時間。いつもの5人だとできないことをしようと思いつつ、取りあえず欲しい本があったので、浜松最大(と思われる)本屋で。夫婦で交代で七海を見ながら本を選んでいると途中で七海は夢の中へ。夜に寝なくなるのは困る、ってことで隣の遠鉄百貨店に移動。キッズペースやおもちゃ売場で、体力を消耗させる作戦にでた。

そして気づけば夕方の5時。もう何もできないので天竜川駅に戻り、近くの居酒屋でご飯。早く寝かせて本をしこたま読もうと頑張ったけど、お風呂あがりに寝落ちしちゃうというオチがついてよくある自己嫌悪に。

子どもが3人いたら大変でしょう、とよく言われる。確かに親の数より子どもが多いと疲弊することも多いけど、疲れ方って相対的なもの。1人なら1人で、3人より疲れ方が3分の1になるわけじゃないと思う。

1人ならもっと自由になるかなーと思いながらそうじゃないので、諦めのつく3人の時よりガッカリ感がある。大滋1人の時だって新婚旅行(大滋は連れ子なので。東京→旭川→礼文島→那覇→竹富島→石垣島)行った時は、もう旅行なんてしたくないと思ったほど疲れたけど、いま3人連れて旅行するのと、そんなに変わんない。 だから、子どもを連れているママやパパを見るだけで、妙な連帯意識を感じてしまう。

祖父にもらった愛情のバトン

せっかく大学を出て入った会社、しかも大きく安定した会社を辞めて、素人が得体の知れない事業を始めると言ったら、親族なんかからはたいてい、こんな反応がある。「子どもが3人いて、育てられるの? ごはん食べていけるの?」「失敗すると思うけど」

そりゃそうだ。

親になってみて思うのは、まず心配することが親の仕事みたいなもんだし、リスクを飲み込んで子どもを信頼し、「本人が決めたことだから」と黙って応援するのなんて、めちゃくちゃ胆力がいる。そもそも自分のこれまでの経験の範囲でしか、良し悪しも見通しも判断できないだろうし、経験を超えた未知のことを目の前にすると、普通は思考停止になっちゃうだろうなと思う。

5年前に結婚した時、自分の父方からは猛反対に遭って、事実上の縁切りだった。

「死ぬまで会いたくない」と言われて実際に葬式まで会えなかった祖母もいて、かなりきつかった。でも今なら「みんな幸せにやってるよ」と胸を張れるし、その状態をキープしていかなきゃと、気が引き締まる。原動力になる。祖母も意地悪したくて言ったわけじゃないし、それぞれの考え方でかわいい孫を心配してのこと。

一方で驚いたのは、母方の祖父が、血のつながっていない今の長男(大滋)を最初に紹介した時からかわいがってくれ、「浩司(わたし)が大滋を自分の子だと言うなら、俺らのひ孫だ」と受け入れてくれたこと。妻(茜)に対しても「浩司がいい人と思うなら、そりゃいいんだろう」という風だった。母方の祖母もそんな感じ。

これにはやられた。反射的に尊敬し、誇らしくなった。

めちゃくちゃ心強かったし、「こんな風に子どもや孫を認められるような、愛情深い親になりたい」と激しく誓った。そう言ってくれたから、なんとかやってこれた。

認めてくれる人が少数でもいるなら、もっと他の人にも認めれるように結果を出すまでだなと。

はじめから理解されなくても、プロセスと結果を見せることで、ちょっとずつ理解を広げていく方法はアリだと思う。もちろんいろんなハレーションや、失うものもあるけど、賛成ばかりというのは誰でも思い付くことで面白くもないし。

いま愛情深い親になったかどうかはおいといて、子どもにどんな事を伝えていくべきなのか、っていうのは、それなりに考えてきたつもりではいる。

小学校の予備校みたいな教育は幼稚園に求めないし、画一的な設備に囲まれた園庭よりも自然に囲まれて遊んでほしいし、(本人たちが望めば別だけど)絶対に受験戦争で戦わせたいとは思わないし、「みんなが行くからとりあえず大学」に違和感を持ってほしい。アタマより五感を発達させて、きれいなもの、本物にたくさん触れてほしい。反面教師にしてほしい、というのもあるけれど。

「ここでは足りないな」「違うな」と自分で思うなら東京や海外に行けばいい。親の希望なんて聞こうとしなくていい。親は時には歯を食いしばって我慢し、認めて受け入れ、後ろからそっと手を添えるくらいが丁度いいのかな、というのが今の気分。というか究極の理想。

「新しい仕事と暮らしをはじめて、大学に行かせられるくらい稼げるのかしら」と思ったこともあるけど、奨学金もあるし、最低限の備えがあれば、なんとかなるはず。甘いと言われるかもしれないけど、そう思うんだから仕方ない。大病にかからず、働ける体なら、必死に働くことはできる。

あした死ぬかもしれないし、世の中はどんどん複雑に不透明になってくる。人間は自然だけじゃなく、人工知能にも向き合って共生しつつ、「人間」を見つめ直さないといけない。

確かなことなんて何もないんだから、自分で考えて自分でリスクを取って楽しめる人になってほしい。親としてはお金よりも、そんな環境や雰囲気をつくりだしたいし、親のやっていることを見てほしい(失敗したらごめん)。

新天地でその一歩を踏み出せるかどうか。そんなドキドキの場所に、いまわが家はいる。