初「ロマンス」

生まれてはじめて、小田急のロマンスカーに乗った。

学生時代に東京(横浜)に4年間いたのに、箱根方面にいくときはいつも、運転の練習という名目でレンタカーだった。いつでも乗れるだろうと思っていたら、一度も乗らないまま就職してしまった。

小田原駅から乗り込んだのは2005年登場の真っ白な「VSE」こと50000系。

お披露目された当時、「なんじゃこりゃ」とドン引きしたのを覚えている。

新興宗教っぽい、出っ歯まエイリアンっぽい、鉄仮面みたい。そんな違和感があった。台車や床下部分がカウルされて、ホバークラフトの上に白亜の城が無理やり乗っかったような出で立ちで、あきらかに浮くだろうと思った。今でも岡部憲明さんのデザインはあんまり好きじゃない。

でも小田原駅でホームに滑り込む、上の写真のような角度から実物を見たら、あれ、かっこいいじゃないですか。

なにより、その存在感は圧倒的だった。同じ私鉄の有料特急でも、西武や京成、近鉄や南海なんかとはまるっきり違う。同じく展望車が自慢の名鉄のそれと比べても、別次元に映った。

車内からも観察してみる。展望車両の大きすぎる窓は、さながら超巨大なプロジェクターだった。窓枠(ピラー)のない開放感はすごい。外の景色という映像をあふれんばかりに各席に届け、トンネルに入ればプラネタリウムのようなワクワク感を演出してくれる。

登場からゆうに10年を超えているのに、まだまだ車内外から視線を集めていた。JR西日本の500系新幹線みたいな感じに。おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんと一緒に乗り込んだ3歳くらいの男の子は「たまらん」という顔を浮かべていた。

シートはお世辞にも座り心地が良いわけでもなく、特段快適な設備があるわけでもない。でも、「ロマンスカーに乗っている」、という特別感は確かにあった。

箱根といえば温泉、湖、山とすぐイメージがわく。映像と結びつく。

ロマンスカーは、誰もが共有している箱根のブランド力に直結するんだろうし、「ロマンスカーに乗る」という体験そのものが、手に届く非日常の観光資源になっている気がする。1957年から脈々と走り続けてきたロマンスカーの強さなんだろう。

一平と三平の、ちょっと味なラーメンの話

ゴールデンウィークに北海道にいったとき、毎日ラーメンを食べることを自分に課した。

味の一平の特製(確か)みそラーメン

旭川、札幌、函館。それぞれ醤油、味噌、塩が有名だけど、なんでそうなったかはいろんな歴史があるし、文化としてまちに根づいている。だからそれを知っておこうと。

というのはうそで、旅行中は大所帯(7人)だったのもあって、嫌いな人がいなくて簡単にお店を選べて、食費もおさえられるから。

新潟から乗った行きのフェリーでは海老味噌ラーメンと塩ラーメン、旭川で飲んだ後には旭川ラーメン(しょうゆだと思うけど酔いすぎて覚えてない)、帰りに苫小牧東港に行く途中には千歳市で味噌ラーメンをいただいた。

いちばんよかったのは、千歳市の「味の三平」。

大学生のころ、高校時代の同級生を連れて卒業旅行を第2弾をやった時、貸し切りでお世話になったバスガイドさんがいま千歳市に住んでいて、その方に教えてもらった。いつも並んでいて、仕事のない日にしかいけないくらいの人気だそうな。ガイドブックとかに載っているのかは知らないけど、地元の人に愛されているのは間違いない雰囲気がプンプンしていた。

スタッフは全員が女性。6~7人くらいはいたはず。

けっこう熱いスープはほどよく濃厚で、ふんだんに盛られた、香ばしい野菜とバツグンに相性がいい。しかも変にくどくない。油がいいんだろうなー。縮れ麺は適度な太さでコシがあり、一口一口、噛みしめるように喉を通すことができる。コシはあっても麺がスープに負けていない。なかなか冷めないのもあるけど、時間をかけて食べたい気持ちにさせてくれる。今まで食べた味噌ラーメンで最高の好みだった。

静岡に帰ってから、毎日新聞の「麺食い 列島味便り」という記事を読んで、札幌味噌ラーメンが紹介されていた。「あっ、ここ行った行った!」と喜んだのもの束の間、よく見たら味噌ラーメンの元祖として書かれていてのは「味の三平」だった。

紛らわしい。。。姉妹店かとおもいきや、そうでもなさそうだし。

「一平」はホームページをさっと探しても見つからず、ストーリーとか女性だけでオペレーションする理由とかは謎のまま。

一方の「三平」はといえば、毎日新聞によると、旧満州で満鉄の乗務員をしていた大宮守人さんが創業。2代目のご長男によると「おなかがいっぱいになって栄養が取れて元気になるラーメンを」という思いがあった。戦地では東北や北陸の出身者が、保存食として焼き味噌を持ち込んでいたらしく、守人さんは「味噌を食べると健康になる」とスープに使うことを思いついたんだって。有名な西山製麺さんと一緒に、濃厚なスープにあう麺を一から開発して、讃岐うどんの本場も訪ねて研究したんだとか。

終戦後ならではのストーリーが泣かせるし、コンセプトが明快。

三平の店内はカウンター13席しかなく、目が届く範囲の対面にこだわっているそう。2代目の〆のコメントが秀一。「客との交流を通じて少しずつ変化している。今のみそラーメンを守るのではなく、時代に合ったものにしていかなければ」

かっこいい!これだけで即食べたくなる。

「一平」はどんなストーリーがあるんだろう。美味しくいただきながら、時間をかけて掘り起こしていうのも、また楽しからずや。旭川にもそんな店が待っているきがする。

学生も大学もローカル資源

今朝の読売新聞一面(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180530-00050152-yom-soci)をみてびっくり。私大が公立化することによって志願倍率が上がり、全国的に経営改善ができている傾向があるんだと。

へー。そんなこと想像もしたことなかった。

公立大の運営費は行政経費とみなされるので、規模に応じて国から地方交付税交付金が充当される。だから授業料を抑えることができる、そして・・・というからくり。

ふむふむ確かにそうだよなー

これとは別に国立大でも動きは加速している。

5月29日には小樽商科、帯広畜産、北見工大が、2022年度の法人統合をめざすことで合意した。少子化が進むなか、運営費の削減が目的。名古屋大と岐阜大、浜松医科大学と静岡大など、各地ですでに検討がはじまっている。運営交付金を減らしてきた国が再編を促してるので、今後も増えるんだろうと思う。

という風に大学業界はいま、本当に忙しい。

まぁこれまでと同じ状態ではいられない、という意味ではどこの業界も同じなのかも。

冒頭の読売の記事では北海道内の動きとして、旭川大学が公立化を検討していることと、千歳科学技術大が2019年度に公立化される、とある。

千歳の例は知らなかったけど、ゲストハウスの予定地から歩いて5分かからない場所にある旭川大の件はずっと気になってるし、地元ではけっこう大きなテーマになっている(地元住民になったつもりで言うと)。

地元で経済・社会の担い手になるような若者を増やしたい旭川市、学生を確保したい大学側。この点では思惑は一致してるようで。

私学だからこそ思い切って自由にやれる利点もある気もするけど、大学が公立化を求めてるってことは、なかなか現状は厳しいんだろうなー。でも公立化となれば、税金を投じる大義と丁寧な説明も求められるはずだし。。。と漠然と勝手に思っていたけど、調べてみるとけっこう前から、市民(民間)レベルの動きもあったようで。

旭川は日本の「五大家具産地」に数えられるほど家具づくりが盛ん。業界には地域色を押し出したい、っていう考えがあったようで、ずっと「旭川に公立『ものづくり大学』の開設を目指す市民の会」が活動している。地元の名士の方々も名を連ねていて、けっこう影響力がありそうな気がする。

どうしても縮んでいく新聞業界と同じで、他の会社とお客さんを取り合うようなやり方はもう意味がないし、疲弊して息切れするだけ。ファンは育たない。だから「市民の会」が打ち出した明確な方向性はおもしろいと思った。

北海道新聞によると、5月18日には市と大学、市民の会による3者協議が始まり、「ものづくり系学部案」について意見を交わしている。6月には方針をまとめて、市長は任期の11月までに公立化するかどうかの判断をするらしい。

どうなるか楽しみで、ウオッチしてきたい。

その一方で、いま現にいる学生さん、大学に対して地域は何を求めてるやろ?と興味がわいた。旭川大学は地域連携でいろいろ面白いことをやっていらっしゃるイメージが強いけれど、地域から見たら、どんな風に映っているんだろう。

逆に学生さんは地域や大学に、何を求めているんやろう。旭川大がどんな範囲で学生を集めているのか、学生は何を求めてここを選んだのか、どんなブランドイメージなのか、まだまだ知らないことだらけ。

地域⇆学生・大学、お互いの求めていることはちゃんとマッチできてるのか知りたくなった。地域は学生・大学を活かしきれているのか。公立化となると、お金の問題だけじゃなくて、そんな点も問われる気がするもんで。

これまでの記者生活で、いくつかの大学で、地域との連携を模索している様子を見てきた。愛知淑徳大、愛知県立大学、愛知県立芸大、名古屋学院大、南山大、愛知産業大、金沢大、石川県立大、金沢工業大学、金沢美術工芸大、静岡文化芸術大、静岡大・・・。

いちばん強烈な印象が残っているのは、かつて金沢大の学生で、今は「学生×地域」の挑戦を後押しする「株式会社ガクトラボ」を経営する仁志出憲聖さん。まちなかの古民家を改装して学生たちが活動する拠点「金沢学生のまち市民交流館」のコーディネーターもされてる。学生時代からもう、とんでもない能力と人柄で、あらゆることとつながってるイメージだった。フォローしきれないくらいの活動の幅。仁志出さんたちの活動は間違いなく、金沢市や地域を動かしてきたし、金沢=学生のまち、のブランドをつくってきたと思う。

いま浜松市にいて取材する機会の多い、冒頭の読売記事にもでていた静岡文化芸術大学も、すごいなあと思うことが多々ある。本当によく学生さんや先生たちが地域に出て活動している。今年2月には、国内で初めて「フェアトレード大学」に認定された。このフェアトレードひとつとっても、いろんなレベルで、組織で、草の根的に動いている。学生団体は市と協働して駅前とかでカフェを開いたり。いつもそのバイタリティに圧倒される。

学生さんたちの力はすごい。でもそれだけではなくて、大学側も自分たちの役割を認識して、地域になにが求められるのかを探ってる気がする。

地域の中で自分たちの大学がどうあるべきか、公立大だからこそ深く考えられるんだろうなーと、勝手に思ってる。金沢大はこのエリアを引っ張っていく使命があるし、県立の静岡文芸大も、市との連携もうまくいっているように見える。

その上で、じゃあどんなリソースを使うのかというと、やっぱり学生の力を置いて他にないと思う。

学生はニュートラルな立場なので、利害関係がやっかいなオトナ同士だけでやるよりも、間に入ることでスムーズにいくことも多い。別に失敗したってご飯が食べられなくなるわけじゃないし。

「こんなことをしたい」と学生が熱くなって、きっかけやヒントを授ける先生がいて、それを地域の大人たちがどう活かして、地域の課題を解決しようとするか。戦略的に考えるといろいろできる気がする。というか、したい!  旧市街地でのコミュニティづくり、地元林業と家具産業の深いコラボレーションとか。それで地域が楽しく、豊かになっておカネとヒトが回っていくのなら、税金は無駄にならないはず!

学生も大学も、地域(ローカル)資源なのは間違いないと思う。

祖父にもらった愛情のバトン

せっかく大学を出て入った会社、しかも大きく安定した会社を辞めて、素人が得体の知れない事業を始めると言ったら、親族なんかからはたいてい、こんな反応がある。「子どもが3人いて、育てられるの? ごはん食べていけるの?」「失敗すると思うけど」

そりゃそうだ。

親になってみて思うのは、まず心配することが親の仕事みたいなもんだし、リスクを飲み込んで子どもを信頼し、「本人が決めたことだから」と黙って応援するのなんて、めちゃくちゃ胆力がいる。そもそも自分のこれまでの経験の範囲でしか、良し悪しも見通しも判断できないだろうし、経験を超えた未知のことを目の前にすると、普通は思考停止になっちゃうだろうなと思う。

5年前に結婚した時、自分の父方からは猛反対に遭って、事実上の縁切りだった。

「死ぬまで会いたくない」と言われて実際に葬式まで会えなかった祖母もいて、かなりきつかった。でも今なら「みんな幸せにやってるよ」と胸を張れるし、その状態をキープしていかなきゃと、気が引き締まる。原動力になる。祖母も意地悪したくて言ったわけじゃないし、それぞれの考え方でかわいい孫を心配してのこと。

一方で驚いたのは、母方の祖父が、血のつながっていない今の長男(大滋)を最初に紹介した時からかわいがってくれ、「浩司(わたし)が大滋を自分の子だと言うなら、俺らのひ孫だ」と受け入れてくれたこと。妻(茜)に対しても「浩司がいい人と思うなら、そりゃいいんだろう」という風だった。母方の祖母もそんな感じ。

これにはやられた。反射的に尊敬し、誇らしくなった。

めちゃくちゃ心強かったし、「こんな風に子どもや孫を認められるような、愛情深い親になりたい」と激しく誓った。そう言ってくれたから、なんとかやってこれた。

認めてくれる人が少数でもいるなら、もっと他の人にも認めれるように結果を出すまでだなと。

はじめから理解されなくても、プロセスと結果を見せることで、ちょっとずつ理解を広げていく方法はアリだと思う。もちろんいろんなハレーションや、失うものもあるけど、賛成ばかりというのは誰でも思い付くことで面白くもないし。

いま愛情深い親になったかどうかはおいといて、子どもにどんな事を伝えていくべきなのか、っていうのは、それなりに考えてきたつもりではいる。

小学校の予備校みたいな教育は幼稚園に求めないし、画一的な設備に囲まれた園庭よりも自然に囲まれて遊んでほしいし、(本人たちが望めば別だけど)絶対に受験戦争で戦わせたいとは思わないし、「みんなが行くからとりあえず大学」に違和感を持ってほしい。アタマより五感を発達させて、きれいなもの、本物にたくさん触れてほしい。反面教師にしてほしい、というのもあるけれど。

「ここでは足りないな」「違うな」と自分で思うなら東京や海外に行けばいい。親の希望なんて聞こうとしなくていい。親は時には歯を食いしばって我慢し、認めて受け入れ、後ろからそっと手を添えるくらいが丁度いいのかな、というのが今の気分。というか究極の理想。

「新しい仕事と暮らしをはじめて、大学に行かせられるくらい稼げるのかしら」と思ったこともあるけど、奨学金もあるし、最低限の備えがあれば、なんとかなるはず。甘いと言われるかもしれないけど、そう思うんだから仕方ない。大病にかからず、働ける体なら、必死に働くことはできる。

あした死ぬかもしれないし、世の中はどんどん複雑に不透明になってくる。人間は自然だけじゃなく、人工知能にも向き合って共生しつつ、「人間」を見つめ直さないといけない。

確かなことなんて何もないんだから、自分で考えて自分でリスクを取って楽しめる人になってほしい。親としてはお金よりも、そんな環境や雰囲気をつくりだしたいし、親のやっていることを見てほしい(失敗したらごめん)。

新天地でその一歩を踏み出せるかどうか。そんなドキドキの場所に、いまわが家はいる。

大ナゴヤ大学というコミュニティー

29日(火)は名古屋本社へ出張。名駅から名古屋城近くの丸の内までのんびり歩いていると、8年前の楽しい記憶がよみがえってきた。

新聞記者になったのが2008年、初任地は愛知県の瀬戸支局というところだった。

焼き物のまち・瀬戸を中心に尾張東部を担当していて、休みの日なんかは名古屋・栄をぷらぷらしていた。

就職するまで名古屋といえば、関西出身の自分にとって、「東京でも大阪でもないところ」「最初は『のぞみ』に通過されたところ」くらいの印象しかなかった。

あとはきしめん、味噌カツとか。中学の時に地理の授業で、教師が「おみゃあ、えびふりゃあ」とか言って笑いを取ってたのはよく覚えてるけど。

ということで、それ以外にはナゴヤの印象はあんまりなままだった。でもそれが急に、彩り豊かに、おもしろいまちだ!と思えるようになった。

なんでかって、「大ナゴヤ大学」を取材したから。

校舎や特定の教室をもたない、まちじゅうがキャンパスという学びのコミュニティー。オシャレな生涯学習みたいな感じで、誰もが先生になれる。繊維街の魅力発掘、大須の住職さんのはなしを聴く、味噌蔵を歩いて回る、知る人ぞ知る市場で買い物する、ビール工場に入る・・・。

あらゆるテーマでいろんな人が先生になり、好きな授業に参加する。

まちを知り、いろんな人と会い、眠った地域資源を掘り起こして、ナゴヤの魅力を再構築する。ゆるいつながりを純粋に楽しんで、たとえ飲み会に行くだけでも〝単位を落とす〟わけじゃない。参加者同士、気づけば仲良くなっている。

一方で運営にたずさわるコアメンバーは、ナゴヤを代表する高感度な人たちばかり。  めちゃくちゃ真剣にブレーンストーミングとかやってるけど、めっちゃ楽しんでる。顔が疲れてても、ひたすら楽しそう。職種もバラバラ 。ただこのナゴヤという街が好きで、面白そうだからやってるんだろうと思う。だから人が人を呼ぶし、参加してる人にも伝染するんだろうと思ってた。

どんどん人気を集めて生徒数が増えていたので、直接関係のない瀬戸支局員ながら、取材を敢行。名古屋市内の取材は基本的に社会部がやるので、一部では「道場破り」って言われたけど、こんなに面白いのに書かないならしょうがないでしょ、と。夕刊1面にドーンとでて、自分の中ではけっこうな満足感があった。若気の至りでほんと恥ずかしい限りだけど、「大ナゴヤ大を発掘したー!」と勝手に思ってた。

初代学長の加藤慎康(シンヤス)さんは立ち上げですごい苦労をされたと思うけど、柔らかい包容力があって、まわりのスタッフに心から愛されていて、取材者としても参加者としても、「なんか輝いて生きてるなー、いいなー」って見ていた。こんな大きなまちで、大御所をふくめて人を巻き込めるのってすごい。そして自分の中で、ソーシャルなことへの関心がモクモクと立ち上がってきた。

今思えば、まち(地域資源)と人(人的資源)をみんなでシェアしているような感覚。それぞれの得意や興味を持ち寄って、みんなにおすそ分けするような。いま流行りの、小商いにも通じるのかな、と思う。

自分が大切にしている、「いろんな人がまじって、公共空間を豊かにする」ってことと、完全に一致してる。別に小難しいことを考えなくたって、子どもみたいにワクワクして楽しんでることの積み重ねが、まちを彩ってる。サイコーです。

姉妹校は元祖のシブヤ大学(東京)とか、札幌オオドオリ大学(北海道)とか、全国にいくつかある。札幌ものぞいてみたいところ。

規模とか仕組みはこれらとは違うけど、ゲストハウスの予定地からみれば似たような名前の〝大学〟もある。有名な景勝地・層雲峡のある上川町で開かれる、期間限定の「大雪山大学」。今シーズンのコンテンツが発表されたら、とりあえず遊びにいこ。列車でもいけるので、日本で一番新しい酒蔵がつくる日本酒でも学びにいこ。

知る、つながるってことも立派な体験。コト消費。

ツーリズムと親和性がないわけないので、いろいろ絡めていこう。

もっといえば、ゲストハウスを基点に学び合う企画もしたい。もう温めてあるけど、なんとか形にして、自分が一番たのしんでやろう。

シンヤスさんはいま、岐阜県美濃加茂市で「まちづくりコーディネーター」として活躍されている。久しぶりにメッセージを送ったら、相変わらずステキでした。シンヤスさん、これからもいろいろ教えてくださいー

大雪山とセイコーマートの恵みを感じる、旭川日帰りの旅

もう、ペダルこぎたくなるよね。永山地区を流れる人工河川。人の手でつくられたのに、優しい。

28日(月曜)は貴重な平日休み。セントレア⇆新千歳、行きはエア・アジア、帰りはスカイマークの組み合わせで、合計12000円の弾丸ツアーにいってきた。スカイマークは手荷物の心配ないし、足元狭くなくてほんと楽で助かる。

レンタカーはいつもお世話になる、カーレンタル北海道さん。一日乗り回して3000円ちょい。きれいだし、車種指定もできる。きょうはこれまで乗ったことのなかった先代のスイフトをチョイス。やっぱりヴィッツとかフィットより、長距離運転は楽で助かりまくり。

とはいっても最近の睡眠不足で、休憩を繰り返して旭川を目指す。途中、野幌パーキングエリア(小麦で有名な江別市らしい)で、セイコーマートの店内調理「ホットシェフ」で食べ物を物色。道内では大手コンビニも太刀打ちできない理由の1つにこのホットシェフがあるらしく、手頃な値段で道産食材にこだわったできたての味を楽しめる。パン好きじゃないけど香りに負けてバターパン、つまみにうま塩味のから揚げ。たしかに大手コンビニチェーンのはもう食べられない。なんかこう、丁寧で優しいけど味がしっかりしてる。高校生のときからセコマファンであります!

旭川北インターから、ゲストハウス予定地からほど近い、北永山駅へ。きょうもいい雰囲気だしてましたわ。雪、雪解け、芽吹きの季節と、もうそれぞれに素敵。しかも、これまでで一番よく大雪山が見れた。ありがたく拝んで、予定地を観察して、いざ本来の目的の信金さんへ。

これも人工河川の「永山新川」。上の写真と別のサイクリストが夢中で写真撮ってました。わかるわかる

こちらの計画をプレゼンし、もろもろのアドバイスをいただく。地元の専門家の方からの的確で鋭い指摘にひれ伏すしかない身だけれども、ほんとありがたいとしみじみ。問題点がクリアになって、一筋縄ではいかない現実をあらためて認識しつつ、力強い後押しをいただく。最敬礼。

市役所に移動して、移住担当、建築指導、保健所、消防に挨拶回り。今後の進め方について確認。これまでも電話で、\いろいろ教わってきたので、法的にはいまのところ引っかかるところはなさそうと、ひと安心。走りながら、こまかくチェックしてもらおう。ありがたや

最後は不動産屋さんに挨拶して、一路、新千歳空港へ。

いま手に入れようとしている土地はもともと売りに出されておらず、所有者さんのご家族の事情もあるため、売っていただけるかどうか。

土地を買えるとして、自分のやろうとしていることが、地域に受け入れられるか。求められるものに進化できるか。納得してもらえるような胆力と言葉を持てるか。

まだまだスタート地点に立てていないな、と気を引き締めた1日になった。いまの形でいけるのかどうか予断を許さないけど、なんかしらの「ベスト」に向かっているのは間違いない。少なくともそう思うことにしよう。

 

 

 

 

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由③ しっくりくる空き地

北永山駅から大雪山を望む

(②からつづく)

超興奮して忘れられない取材のひとつは、北陸新幹線開業の前の2014年にインタビューした、デザイナーの水戸岡鋭治さん。JR九州のクルーズトレイン「ななつ星」や九州新幹線「つばめ」などの生みの親で、今では全国各地の列車や病院までも手がけていらっしゃる。

きっかけは、九州新幹線開業で誕生した第三セクター鉄道「肥薩おれんじ鉄道」を走る、全国のレストラン列車の先駆けになった「おれんじ食堂」のルポだった。この列車とコラボレーションするように、鹿児島県阿久根市の阿久根駅が、水戸岡さんの手によってリノベーションされ。それをネットで知った数日ほど後にお披露目会があるというので、金沢勤務(当時)の北陸新幹線の担当記者として、「駅とまちづくり」の趣旨の連載企画を考えて、さっそく出張した。

駅をまるで公民館のように、まちづくりの核として。迎賓館のようでありながらマルシェイベントに使える待合室、超絶オサレな食堂やカフェ、図書館、子どもの遊ぶ部屋がある場に仕立てられていた。ご本人にもインタビューして、感動しきり。ちなみに去年のゴールデンウィークに家族旅行で再訪したら、やっぱり賑わっていて、「やっぱりね」と一人で訳知り顔を浮かべていた。

ということで、水戸岡イズムの真髄に迫ろうと、機会をあらためて、東京にある水戸岡さんの事務所にも出かけた。心を揺さぶられた言葉がたくさん。

◉商店街など個人の持ち物に手をつけるのは大変なので、公共から変えていく。鉄道車両から始めるのが一番簡単で、次に駅、町並み。

◉ちゃんとした駅をつくると、お客さんはまちの意識が分かる。「心地よいものをつくる」という気持ちがわかる。木を守るとか、まちの意識をみている

◉子どもが楽しい、さわりたいと思える一流のものが大事。心地よい古里をつくらないと、子どもは帰ってこない。おいしい水があって魚が帰るのと同じー。

今回のゲストハウス計画で、石狩沼田駅の構想が頓挫したとき、水戸岡さんの言葉が頭に浮かんだ。そして気づいた。

「沼田じゃなくてもできるじゃん!」

存続が確実視されるJRの路線があって、特別支援学校が遠すぎず、環境の良い幼稚園があって、商圏が小さすぎず。。。

さっそく探してみて、その日のうちに3駅の候補が浮上。その中から、田んぼの中に立つような、宗谷本線の北永山駅に惹かれた。

なかなかの雰囲気。高校生のものか、いつもポツンと自転車が置かれていて、たまらない
北永山駅の待合室からの眺望。もうこれは反則

すぐ近くに旭川農業高校(きょくのう)があって、高校生のお客さんが多い。待合室から大雪山が望める。酒米がとれる・・・。グリーンツーリズムのような、長久手時代に学んだ「都市と農村の交流」ができると思い、法務局のインターネット申請で所有者を把握し、絵を描いた。

でも、調べれば調べるほど高い壁が立ちはだかった。

農地なので、転用はめちゃくちゃ難しい。そもそも、開発が制限される「市街化調整区域」なので建築物が原則、新規につくれない。農業を生業にしていないとグリーンツーリズムや農泊ができない。無秩序な開発を防ぐという名目で農地はいろんな法律でガチガチに守られていて、なかなか手を出せない。

とはいっても、それだけでは諦めがつかないので、市役所に攻略のこつを聞き、日帰りで旭川に行って、いざ地権者に突撃!  耕作放棄地っぽい農地を借りれないか打診してみるも、「じつは小作で貸してまして・・・」とあえなく撃沈。

すぐさま近くの石狩川に飛び込みたい思いに駆られたものの、ぐっとガマンして、帰りの飛行機に乗り込んだ。でも翌日からは「でもやっぱこの辺に住みたい」と気を取り直して、土地探しをスタート。そこで今回の予定地にめぐりあった。

そこなら何ができるのか。本当に自分がしたいのは何なのか。

幸運にも、またまた考える機会をカムイ(神さま)が与えてくれた。

自分なりに考えた。公共空間は駅だけじゃない、ドラえもんに出てくるような、土管の似合う空き地も一緒じゃん。ここを公園みたいに心地よくできれば、石狩沼田駅よりも、北永山駅よりも楽しくなるじゃない、とすぐ分かってしまった。

いま旅好きは、ローカルの普段着の飾らない暮らしの体験や、地元の人との飾らないおしゃべりを求めてる。それじゃあ、駅より住宅街のほうが、しっくりくる。

そして今に至る。いまの状態はベストだと思っているけど、どこでどう転ぶか、ハードルがあるか分からない。ひょっとしたら、次のベストが待ち受けているのかも。        (おわり)

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由② 最初の挫折

北海道で人生の大逆転を狙おうと思ったはいいものの、悩んだのが場所選び。180近い市町村があって、良さげな自治体をしらみつぶしに調べていった。

条件はJRの駅があること。競合が多くないこと。空港から3時間以上かからないこと。通える学校があること。病院があること。

今や「くらしごと」みたいな、センスのいい道内の移住情報を紹介するサイトも多く、情報収集はそんなに苦労しなかった。ただ、条件に合うものを絞っていくのに時間がかかり、最初にヒットしたのが、沼田町というところだった。

旭川から45分、深川から20分ほど(確か)、留萌本線が通っていて今はその終着駅は留萌。その先の留萌~増毛が廃線になったばっかりのことは知っていたけど、沿線については全然知識も印象もなかった。

調べてみると、豪雪地帯で、「天然の冷蔵庫」「現代の雪室」とも言うべき、雪を活用した貯蔵施設が普及していた。雪で寝かせて一年中が「新米」と売り出せる雪中米とか、同じようにした酒、農産物とかが人気。〝寝かせる文化〟があり、「発酵」にも通じるな、と気になってどんどん興味がわいた。ネットで石狩沼田駅を見ると、乗降に使っていないホームがあって、コンテナのゲストハウスを置くのにぴったり!ときた。待合室も、交流スペースにふさわしい風情。

旭川から沼田町への道中。石狩沼田駅での、とんでもない着雪がある列車の写真とか、いろいろ消えてしまった

さっそく一カ月後の2月25日に家族5人+(なぜか)おかんで沼田町に行き、視察。役場で「駅活」のプレゼンをして、教育委員会に小中学校を案内してもらい、検討を深めていった。JR北海道本社にもお邪魔して、協力をお願いした。

でも、話は進むどころか、すぐ暗雲が立ちこめた。

まず、特別支援学校に通っている長男の大滋(中1)の受け入れが、事実上不可能で、原則的に60キロ離れた美唄市まで送り迎えする必要がでてきた。

それに、ゲストハウスをやる上で当時一番重視していた、駅ホームの活用が厳しい状況だった。留萌本線はものすごい赤字を抱え、老朽化した設備の維持更新ものしかかる。JRとしてはバス転換を訴えているものの、地元との協議には入れていなかった。しかもこれといった打開策・妙案もない。よくある話だけど、1つの自治体だけでは動けず、事実上、膠着状態になっていた。この厳しさは想定していたものの、沿線自治体はまったく動きがなく、現実的ではないと思って、なくなく断念したのでした。

ただ、ここで大きな収穫があった。面白いローカル資源はどこでも掘ればいくらでもあるし、なにより、何がやりたいのか輪郭が少しずつ明確になってきたことが大きかった。

沼田の場合は駅がキーワード。公共空間、メディアとしてもっとも好きな場所。これを豊かに彩りたい、いろんな人がまじって楽しくしたい、子ども達がふるさとを「いいな」と思えるきっかけにしたい・・・。「公民連携」というとおおげさかもしれないけれど、公共の空間に、自分のアイデアや「いいな」と思うものを加えて、みんなの力でデザインしていくプロセスにこそ興味があるんだと思い知った。そして、その思いがなぜ強いのかを認識することができた。

これまで10年間、新聞記者として取材したきた中で、少なからず心を揺さぶられる経験があった。まさにそれが、「多くの人が混じり合い、公共空間を豊かにしたい」という自分の価値観をつくっていた。                      (つづく)

 

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由① 原体験としての卒業旅行

 

ユースホステルで開いた氷上運動会。スノーモービルを押す競争(だったかな)

なんで北海道?」「なんか北海道にゆかりあるの?」って、しょちゅう聞かれる。

そりゃそうか。突拍子もないような印象を持たれるけど、実はちゃんと理由があって、それは高校生時代にさかのぼる。

2年生の時だったはずだけど、旅行委員というのをやっていた。自由・自主・自律を校訓とするだけあって、卒業旅行の内容を自分たちで考えてみて、というミッションがあった。

旅行好きの自分は嬉しすぎて調べに調べ、どうすれば地元の人と交流できるか、安くなるかとか旅程をまとめて提案した。

でも、あらかじめプランが業者と先生の間で決まっているかのようで、どんな提案も一顧だにされない。もっと安くなるはずのフライト、面白くなるはずのコンテンツがあるのに。大手旅行会社がいかにも得意とするような、ありきたり、商業的なプランになった。なんにも新しくないし、定食みたいだった。完全に大人の都合で組み立てられた旅行で、こんなんで「学を修めることなんてムリ」と猛反発した。保護者から吸い上げたお金を搾取して10万近くとられて、怒り心頭だった。なめられた、一生この旅行社は使わない。

あまりにもムカついたので、じゃあ自分でやろうと、3年生のときに「卒業旅行」を企画した。

地元の人と交わり、ちゃんと空気を吸って、体で北海道を感じる旅。商業的な旅行ではなくて、ほんとに自分たちが楽しめるコンテンツを目指した。修学旅行ではできない旅を自分の手でつくろう。

自分の大学受験はほぼ諦め、授業中も北海道の資料を積み上げて勉強していた。なんどもノートにプラン案を練っては、休み時間に宿や観光協会に電話する。航空機や大きなホテルは大手旅行会社のほうが安くなるので、JTBさんに手配してもらい、破格の取り扱い料金(利益)でやってもらえるように交渉した。すべて大型ホテルに泊まるような提案もあったけど、ユースホステルにこだわって、JTBさんの信用も使わせてもらって、各地と直に相談。取り扱い料金は、修学旅行を担当した某社の半分くらい。某社はほぼぼったくりだったけど、教育旅行の闇を垣間見た気がしたなあ。

国立大学の後期試験の数日後に大阪を出発するプランで、教員の引率もつかないので、学校側や一部の保護者から反発があり、手紙を書いたり直接話したりして説得。受験で不安になってるクラスメートにも説得した。(今思えばけっこう強引だったけど)

そんなこんなで2002年3月17日、大阪駅を出発。特急「雷鳥」に乗って敦賀へ行き、フェリーで苫小牧に入ってトマムリゾート泊、翌日はスーパーおおぞらで釧路にいき、SL「冬の湿原号」に乗って屈斜路湖に向かい、ユースゲストハウスへ。オーナーの和さんと、ギターをききながら語りあい自然との向き合い方を学んだり、クロスカントリーをしたり。次の日は知床斜里方面にでて、ディープな店で鹿の精液をのんだり熊肉を食べたりして、小清水ユースホテルで「氷上運動会」をした。帰りは旭川空港から大阪に戻った。料金は修学旅行の半額くらい。

ユースホステルで開いた、氷上運動会のバレーボール

33人が参加してくれ、号泣するほど感動的な達成感があった。絶景よりも、地域の人と交流することにこそ旅の喜びがあった。この時からずっとメールアドレスは、vivahokkaido.specialthanksを使ってる。なんとなく、北海道にみんなが集まれる拠点をつくりたい、って思った。

自分の原体験のようなもので、33年間の人生でこれを上回るドキドキ体験はいまだにない。

新聞記者を辞めて新しい生き方を考えてるときに、自分のこれまでの人生を棚卸しした。やっぱり、この卒業旅行が一番大きな、圧倒的な存在感があった。これを超えるような、ドキドキ、ワクワクした人生をおくりたい、そうじゃないとモヤモヤは消えないと確信。家族には迷惑なはなしだけど、移住先は北海道しか考えられなかった。      (つづく)

 

 

Zは北海道に勝てなかった。偏愛こそバイタリティー

会社に入って2年目か3年目のとき。24歳で、日産のフェアレディZ version NISMOを男の60回ローンで買った。

すんなりと手に入ったわけじゃなかった。

はじめ、愛知から新幹線に乗って静岡市の日産にいったら、「頭金19万円では審査できない」と言われ、居酒屋でイルカの肉を食べながら泣いた(ほんとに)。

悔しくてたまらず、カップ麺生活で半年で150万円ためて、東京・葛西に買いに行った。総額432万円。脂汗がでそうになったけど、ハンコを押した。

学生時代にカタログを見て稲妻が走り、富士スピードウェイのイベントで現物を見て震え、やっとこさ、マイ・フェアレディ(貴婦人)にたどり着いた。人生で2番目に強い幸福感に浸った。

けっこう面白いというか、わりと強烈な、こんな経緯があったから、フェアレディZには特別な思いがあった。間違いなくファン。そして、こんなクルマを今の時代もつくってる会社、ってことで日産のファンにもなった。株も買った。

自分には偏愛的な要素がけっこうある、と自覚はしてる。

だから書店でこの本を取ったとき、「これを読まずして、どうして遊びにきてくれたゲストをファンにできるのか!」と直感的に思った。

佐藤尚之(さとなお)さんの「ファンベース」(ちくま新書)

一気に読了した。

ファン=企業・商品の価値を支持する人。これをいかに大切にするか、ということを、たくさんの事例とご経験で、やさしく教えてくれる。

▪テレビ・新聞といった「マス」で一方的に広告を打つ時代じゃない。新規顧客を狙うアプローチだけでは売り上げを増やすのは難しい。

少数のファンが売り上げの大半を占める。

▪情報とモノがこんなにあふれていて、瞬間的に認知されてもすぐに人は忘れる。

▪検索を活用している人は、ほぼ東京に一極集中している。東京は別の国

▪ファンがおススメしたくなる、言いたくなる状況をつくる

▪友人とは価値観の近い人。友人のオススメは最強メディア

▪ファンと一緒に、時間と手間をかけてコミュニティを熟成させていく作業は楽しいものだということ。それはすてきな人間関係をつくることだから、と。

ファンは20%と考える。少数。「全員にファンになってもらいたい」と望むのが一番の間違い。全員に好かれようとすると、全員を失う

▪差別化こそが大切な価値だった時代は過ぎ去ろうとしている。今はもっと体験価値

や情緒価値に注目する必要がある。

▪モノの背景に「人」がいることをどうやって感じさせるか。

▪SNSの企業アカウントは、一方的なおしらせに終始するのがほとんど。もっと根本的考え方、創業者の志、努力や失敗を投稿すべき。それらを継続することで、何を考え、何を目指しているのかが生活者に伝わるようになる

▪モノには物質的価値と精神的価値があるが、どんなビジネスでも精神的価値を提供することの重要性が高まっている(スノーピーク社長)

メモメモ。

そして、最終章の言葉もグッときた。

「あえてキレイゴトを言うが、あなたは人生において何を大切にするのかというを試されているとボクは思う。何のために会社に入り、何のために仕事をし、何のために生活者にその商品を売っているか」

まさに、人生で何を大切にするのか、ここ数年間考え続けてきた。

家族と向き合い、子どものために「地元」をつくり、どこかに根を張って、自分の力で生きてみたい。北海道への卒業旅行を脇目も振らずつくりあげた、高校3年の1年間を超える、ワクワク・ドキドキを日々楽しみたい。

18歳の冬に、間違いなく自分は北海道のファンになった。

今度は大好きなそこを舞台にして、ファンのつくりかたを勉強して、というか楽しんで、ファンを増やしたい。

フェアレディZはゴールデンウィークに手放した。泣いて手放した。

ゲストハウス計画に、いろんなものを集中させないといけないし、ファンとしての熱狂度で比べたら、Zより遥かに「北海道」だった。そこは迷わなかった。

でも、まちでZを見かけたらザワザワする。10年か15年くらい後には、買い戻してやろうと思う。北海道には叶わなくても、ずっとファンでいたい。