熱海の奇跡を見に行かねば

「熱海」って聞くと、衰退の象徴、っていうイメージがあった。旅行の形が変わったことに対応できなかった残念なところ、という風に。なのになのに、浜松に転勤してからというもの、熱海がにぎわってる、若い人が来てるという明るいニュースばかり見るようになったことになった。

あれ、いつの間に?

これまで興味をもってストーリーをふかく調べることもしなかったけど、今は違う。めっちゃ知りたいんです熱海。

そう、有名なゲストハウス「MARUYA」があり、エリアリノベーション(※)がうまくいっている街だから!

ゲストハウスで起業しようというのに、わが静岡の事例を知らずして、先には進めないもんね。

そんな時に、これまた最高のタイミングというか、自分のためにあるような投稿に接した。リクルート出身で瀬戸市役所時代にお世話になったコンサルタントの柴田朋子さんのFacebookで、「熱海の奇跡」(市来広一郎著、東洋経済新報社)が紹介されてた。なのでさっそく読んでみた。

主なメモ内容と、自分の計画に照らして心に刺さったポイントは以下の通りであります。

 

★  「大きなビジョンと小さな一歩」  志高くとも、まずは持続可能な範囲で。お金に向き合う訓練をせねば  

★ 自分たちの暮らしは自分たちでつくる、自分たちの街も自分たちでつくる→できる範囲でつくっていくために、新聞社を辞めて北の大地に逃避行するんだから

住民みずからが生活を楽しめるようになることで内需が拡大し、外から遊びに来る人が増えて外貨を獲得するローカルな暮らしを体験してもらうゲストハウスにするので、地域の人が楽しく寄れる場をつくりたい。時間をかけて、ていねいに

★街としてのペルソナ(最重視するターゲット層)=クリエイティブな30代に選ばれる街→こちらのペルソナは、関東在住の20〜30代女性。車を持たず、新しいライフスタイル、丁寧に暮らしを模索すると。東日本大震災で価値観が揺らいだ。雑誌「&Premium」や「nice things」を愛読している。

地方の文化やライフスタイルで稼ぐことが新たな地方の観光だ(木下斉さん)→もう間違いない。あらためて意識してこ

★お客さんを集める重要な要素は、街そのものの魅力、街を知るという体験→ほんとこれ。くどいくらい噛みしめよ

★大島芳彦さん「あなたでなければ、ここでなければ、いまでなければ、という事業を生み出そう」→はい。そうします

このゲストハウスに宿泊すると、自然に街に出かけ、街との接点ができるようにしています→同じこと考えてます

「やってから謝りに行く」戦術。事前にすべての方の合意形成をしてから始めていては、いつまで経っても何も変えられない。実際にやってみないと意義はなかなか理解してもらえない。継続すると変化は起き始める→ここ、すごく気になってた。今後重点的に勉強したいところ。どうやれば思いや考えが伝わるか、どこまでどんな形で合意を形成するか

自ら仕事や暮らしをつくっていく人=クリエイティブな人。カフェもゲストハウスもクリエイティブな30代に選ばれる街をつくるビジョンを実現する手段→大きなビジョンと、それにつながる各事業の位置付け、ちゃんと全体図を整理せねば

女性の意見や感じ方をよく知って、意見を取り入れていくことは、新しい仕事や暮らしをつくっていくうえで不可欠。女性には、新しいものに素早く反応する傾向がある。生活を楽しむことに関しては、女性のほうがどん欲。→200%同意。

これからは女性や若者、他地域から来た人や外国人など年代、性別、国籍などを問わず、多様な人たちが関わり、ゆるやかにつながり共につくりあげてこと、磨かれていく→ゆるやかに小さくつなり、気づいたら大きくなってるってのが、今

起業家と地元の人々は経験や考え方に差異があり、すんなりとコミュニケーションがとれないことも多々。でもその間に立って翻訳したり調整したりする役割があれば、信頼関係を築くことがもっと容易になる→やはり皆さん同じ苦労を経験するんだな・・・。自治会長さん以外に、いまいち思いつかない。

宿を街に点在させてネットワークにつなぎ、多様な滞在の仕方を生み出そう。街全体が宿のような感覚で泊まれる街をつくろう→実は空き地を使った〝公園〟づくりだけではなくて、発展させる将来展望もあり。だから、移動可能なコンテナハウスやタイニーハウスが欠かせぬ

★自分や周りの誰かを犠牲にして取り組むことは、結局のところ、良い結果をもたらさない。街を変えることには時間がかかります。だからこそ、楽しく続けていくことが大事です。そのためには、稼ぐことに向き合うことが大事→身に染みる。街を変えることとか、課題解決が先に来たわけじゃないけど、自分たち家族の暮らしも見せていくというか、楽しく暮らすことがまず前提にないと、誰も楽しめないだろうと思ってる

 

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新幹線で飲みに来た同期と180分の濃い時間

日曜日。会社の同期が、名古屋から浜松まで来てくれた。

会社をやめること、旭川でゲストハウスをすることをメッセンジャーで伝えたところ、その日のうちに、すぐさま「近いうちに飲もう」となった。カミングアウトしたのは5月27日のことだった。一週間もたってない。

こういう仲間がいるのは本当に幸せだし、このスピード感はめちゃくちゃ心地いい。

近況報告をしたあと、同期から「ゲストハウスをやるって本当?」と聞かれた。なんで思い至ったか、どんな絵を描いているのか、今の会社への問題意識・・・。まくし立てるようにしゃべってしまい、3時間弱が過ぎてしまった。

これから世の中はどうなっていくのか、売れに売れている本じゃないけど「僕たちはどう生きるのか」・・・。口はぼったい感じがして普段、同僚とあんまり話したことはなかったけど、本当はもっともっとこういう話をしたい。

社会人になって10年超。たまにはインテリぶって、これからの社会いついてざっくばらんに言い合いたい。職場の愚痴や下世話な話ばかりしていても、前に進む気がしない。

ふだん昼ごはんにほぼ一切お金を使わず、いろんな節約をしてきた。自分は極端にふれやすいので、ここ一年くらいは飲み会をドラスティックに減らしてきた。それが正しいなのかどうかは分からないけど、時間もお金もかなり捻出できた。独身の時は毎日飲みに行ってたけど、今やすっかり「飲みに行かないやつ」の烙印を押されてるはず。

でも今日みたいにありがたい声かけをしてくれると、飲んでくれる人がいるって幸せだなとしみじみ。同期と会う3時間のために、名古屋から浜松までの切符(往復で9000円近く)を買って。同期には奥さんやお子さんもいて、家族と過ごす大事な時間もあっただろうに。自分もこういう所までケチるつもりはないけど、彼のようにありたい。

「橋の下」で感じる人間のエネルギー

豊田市で毎年やっている「橋の下世界音楽祭」という、とんでもないイベントに行ってきた。

なにがとんでもないのか始めに言っておくと、集まったエネルギー、生命力、アツさ。半端じゃない。お世辞にもキレイ目じゃないし、こじゃれた感じでもないし、背伸びがないけれど、根っこにある哲学はオシャレ極まりない。

5月に蒲郡であった「森、道、市場」が海岸にたたずむコンクリート打ちっぱなしの建物とすれば、こっちは河川敷に並ぶ、人間くさいほったて小屋。誤解なきよう付け加えると、どちらも人とのつながりを感じ、楽しいしビリビリくるけど、向いてる方が違う。「橋の下」はよりフラットな関係性があり、人間としてのネイティブ感が会場に漂ってる。漢字一文字で表せ、言われたら「原」「生」って書くと思う。

会場は、名古屋グランパス(試合見たことないけど)でおなじみの豊田スタジアムの横の、橋の下。

名鉄の豊田市駅方面からスタジアムを目印に歩くと、〝選手層〟の厚さに目を奪われる。パンクなおじさんや宮古島の海のような色のモヒカンお兄さん、ペコちゃんみたいな服を着たオネエサン、原宿にいそうなOL(死語)風の女性まで。この界隈では日本中の入れ墨メンズが終結したに違いないし、みんなの分を集めれば子ブタのタイニーハウスくらいは作れるくらい、ひげを蓄えた人が多い。リアルな感じがする。

入り口らしい入り口はなくて、入場料も取られず。投げ銭方式でお金をだし、演者側と参加者の垣根を低くしているのだそう。これはなんか嬉しい。

いかにも下町にありそうな、くたびれながら頑張ってる風情の屋台が並ぶ。どっからか持ってきたのかと思ったけど、ここで一から短期間で仕上げただろう雰囲気が木から漂っていた。人間のにおいがプンプンして、たまらない。一つのまちになっていて、土ぼこりさえ懐かしい。雑多な人がいて、アジアンな雰囲気もまじっていて、この活気が心地よい。

飲食の屋台にはたいてい二階の座敷があって、ドジョウやたこ焼き、アユの塩焼き、かき氷といろいろ売ってる。歩き始めて15秒ほどで、車で来たことをMax後悔した。妻の茜は当然のように、「帰り運転するから」と即座に言ってきた。

2017年版のHPのイベント趣旨概要には、「橋の下では役職も何も関係なしに、裸の人間と人間であるだけなわけです」「河川敷から竹を800本程刈りだし、街から出る建築廃材を集め、そこに集まったゴミで何ができるのか、設計図無しのジャムセッションのように大工や職人達が3日間の幻の橋の下町を創っていきます」とある。まさにこの通り、カオスな空間が広がっていた。2013年からは、オフグリッド(送電網から独立した)の太陽光発電がステージとかの電力をまかなうようになったらしい。

まわりのお客さんはやっぱり個性的で、自分は音楽に明るくない上、みんなで大きな声を一斉に出したり、ホーム上の駅員さんの安全確認よろしく一斉に右手を降ったりするのが苦手なので、最初は圧倒されびびっていた。

でも、そんな自分でも30分いれば取り込まれる包容力と説得力が、この橋の下にはあった。

自分にとって一番大きかったのは、子どものエリア(ひょっとしたら農エリア)。なかでも、ニワトリの解体ワークショップだった。命をいただく、もっとも重要な瞬間には立ち会えなかったけど、毛をむしられたニワトリの体が、細かくなっていく過程に釘付けになった。

抱っこされて見ていた4歳の陽己はなかなか驚いた様子で言葉少なだったけど、たくさんの小学生くらいの子どもが、まな板と講師を取り込んで、食い入るように楽しんでいた。

砂肝はなんのためにあって、骨と内臓はどうくっついているのか。よく聞く部位の肉や、内臓を一つ一つはがして、お兄さんが説明していく。

若鳥は3ヶ月で肉になる。ちゃんとした環境でお肉にするには本来、8000円くらいかかるらしい。「牛も鳥も値段の差なんてない。鶏肉は、早く育つのでエサでコントロールしやすいから安くできるだけ。皆さんが安いと思ってるだけ」と熱弁をふるってくれた。なんか、人間の教育論みたい。

生きたままメンチにされることもあり、それはラーメン屋の鶏がらスープになってるんだとか。

解体された体内を覗き込めば、大小すごい数の黄身があり、衝撃的だった。ある程度大きくなると、よく見る殻が出来上がる前の状態になる。体内にあったその卵を触ってみると、ちょっと固めのスライムのようにブヨブヨで、表面は障子和紙みたいな繊細さだった。絶たれた命に存在していた、おびただしい命の再生産を垣間見れた。

講師の男性は「食べものがどうやってつくられているか。一週間たてば忘れてる。音楽はなくても絶対死なないけど、人は(イベントに)来る。食べものがないと絶対に死ぬのに、『食べもののことを考えろ』って言っても人は来ない。でも、当たり前に若鳥を買うとき、きょう見たことを思い出してほしい。忘れても、ふと思い出すことはできる」

そのあと、切られた足や頭、ササミやたまごをそっとなでてみた。このワークショップだけでも、「橋の下」が目指すものの一端が分かったような気がした。

子どもエリアを奥へ進むと、「デッドストック工務店」の松本憲さんが制作に加わったゲストハウスや、竹を組んだハンモック、ブランコが見えた。公園づくりのヒントになった。

会場をあとにするころには、阿波踊りみたいな音楽が大音量で演奏されていて、自分も手を上にひらひらと動かして、子どもたちと踊りながら歩いた。2時間半前に来た時のアウェー感は、知らん間になくなっていた。

クタクタになって浜松に戻り、晩ご飯を食べるタイミングを失って、近くの「はま寿司」に入った。「食べものがどうやってできているか」、全然わからないものをさっそくいただくことになった。まあ、そうなもんか。さっそくワークショップの講師さんの言葉を思い出すことになった。

ただ、ぐるぐる回るレーンを眺めていると、魚の切り身が泳いでるんだと信じている子どもがいるーーっていう話も、あながちないわけじぇないな、と思えてきた。

 

 

 

 

 

「こだま」のススメ

東京出張からの帰り、八重洲地下街の北海道アンテナショップ「北海道フーディスト」に寄った。有楽町の交通会館にあるアンテナショップより、買い物を楽しむ場という雰囲気は弱いけど、新幹線に乗る前に駆け込むに便利で、できるだけ足を運ぶ。

ここに来れば、道内のどんな地域でなにを押し出しているのか、地味だけどおもしろいものがないか、何が人気なのか、いろんな発見がある。この日は鮭とばスライスと、ハスカップのケーキ、うまい棒みたいな「なまら棒」、焼き下足を買った。いつも通り、できるだけ札幌にはないようなマイナーなものを選んだ。

今日はこだま号にお世話になる。車内では、自分の後ろの席にカップ酒なんて飲まないようなすごく清楚でナチュラルメイクの女性がいて、鮭とばも焼きゲソも、食べるかどうか悩みまくった。新幹線車内での551は許せるかどうか、激しい議論になったことがあったけど、乾物はどこまで嫌がられないのかと悶々としていた。

そうこうしているうちにこだま号は走り出し、となりのスーツ姿の男性は、崎陽軒のシュウマイをむさぼり始めた。ほのかな香りがただよう。明らかに、同調を誘う香りで、カラシの袋が「みんなで食べれば怖くない」とメッセージをこちらに伝えている。

たまらず、右手でプレミアムモルツの缶を開け、左手で鮭とばスライスを手に取った。イカよりもまだ臭いがましかな、と合理的に判断。鮭とばは、一口食べたらチャックを閉めよう徹底して、背中を丸めるようにして食べた。止まらない。ペースアップする。品川駅に着く頃には、ビールも鮭とばもお腹の中に消えた。

仕事ができるくらいに程よく気持ちよくなると、まわりをキョロキョロしてしまう癖がある。ここが大事なのだけれど、心なしか優しい気分になれることが多い。

この日は右斜め前のほうに、子ども2人を連れたお母さんが乗っていた。下の子は2歳くらいの女の子。駄々をこねられてお母さんが通路に立って抱っこしはじめた。女の子は荷物棚にあったカーキ色のボストンバッグを見つけて、「パッパー」といきなり笑顔で指差した。すると、すかさずお兄ちゃんが「おっきいものはなんでもパパって言わないの!」とたしなめる。けっこうな怒気を込めて。文字面だけだけみたらムチャな八つ当たりのようだけど、完全にうちと一緒で、吹き出しそうになった。

わが家の4歳の陽己(はるき)は、妹だからよけいになのか、2歳の七海(ななみ)に向かって「ごはんちゅうでしょ」「歩きながら食べないの!」、と口をギュっと結んで叱りつける。時にすごい剣幕で、指導したがる。数分後に、自分の発言がブーメランになって返ってくる、という点においてはまったく学習能力がない。

「どこも大変だなあ」と気楽にほっこりしていたけど、今まさに大変な思いをしている件のお母さんを遠巻きに見ていて、申し訳ない気持ちになってきた。自分だけビールとつまみで気持ちよくなってて、ごめんなさい。

自分もあるなあ、汗だくで赤ちゃんを抱っこしてる時に、気持ち良さそうにしている夕方のおじさんを恨めしくなったこと。

くだんの親子3人連れは、熱海駅で下りた。下の女の子はベビーカーに乗っている。3人は赤ら顔のスーツ姿のおじさんたちに次々に抜かされ、徐々にスピードを上げた「こだま」にも置いてかれてしまった。心の中で「がんばって!」と応援した。

「こだま」は、いろんな層のお客さんが混じり合う。乗る区間や装いもさまざま。途中の停車駅が多いぶん、たくさんの人の出入りに目を凝らす楽しみがある。「のぞみ」がつまらないと感じるのは、始まりと終わりしか目に入りにくいからでもある。

変わり続けるまち。更新できてない自分。

久しぶりに東京に行ったので、空き時間に新宿で本でも探そうかと、新南口から高島屋タイムズスクエアを目指した。

はじめて生で見た「バスタ新宿」、なんだかよくわからない新しい複合施設・・・。数年前に来た時と景色がかわっていて、巨大なスーツケースを引く外国人の多さにびっくり。駅員さんも尋ねられまくりで、大変だ。

高島屋の横を代々木方面に歩くと、なんだか免税カウンターばかり目に入る。近くの工事現場は忙しそう。これ以上、またなにか造るんですか。落ち着かない。

紀伊國屋書店があったところにやっとこさ着いた。でも紀伊國屋のロゴは見当たらず、あれま、「ニトリ」の文字がドーンと飛び込んできた。

ニトリは北海道がうんだ名企業だから言いにくいけど、わが家でもテーブルやイス、ソファーといろいろそろえましたよ、安いから。お値段以上、とCMで言うので。でも何年もたたないうちに、テーブルの足はガタつき、イスとソファーのクッションがやられ、マシュマロのように沈んでいった。今も沈み続けてます。そのニトリが、なんかオシャレな感じの装いで入居していて、やっぱり免税カウンターをアピールしている。紀伊國屋があった時は和書も雑誌も専門書も洋書もあって、貴重な気持ちのいい空間だったけど、いまここではどんな家具文化を発信しているんだろうか・・・。

探し回ったけど、やっぱり以前のような複数フロアにまたがる紀伊國屋書店はなくなっていた。洋書専門、日本語参考書のワンフロアだけ残っていた。普通に考えて、ほとんどは外国人のお客さんだろうな

オリンピックが近いこととか、訪日外国人がどんどん増えてることがあるんだろうけど、明らかに新南口は数年前と違うかたちになってた。

東京は変わり続けている、すごいなあと思うと同時に、少し恥ずかしくなった。この日読んだ中日新聞の地域面で、ウェブマーケティング会社の女性の言葉に接していたから。いわく、「時代に合わせて自分の考えを更新したり変化に対応することが大切」。たぶん、高島屋の本館を含めて、この界隈で求める客層なんかも数年前とは全然違ってるんだろう。ものすごく変化しているのに、昔と同じように紀伊國屋はそこにあると思い込んでいた。新宿のまちの情報を更新できていなかったし、これほど変化してると思いもよらなかった。ちょっとオーバーだけど、軽くショックだった。

北海道でも、新幹線の札幌延伸とか、オリンピック(選ばれたら、だけど)開催、外国人のニセコからの流出とかで、どんどん変わっていくはず。旭川だって、空港が拡充されてくるから、つねに変わっていく。まちの更新についていけるように、自分も更新していかないと、とてもついていけない。ご飯も食べられない。

それにしても、東京は本当に疲れる。学生時代に4年間もいたことが、まったく信じられない。

初「ロマンス」

生まれてはじめて、小田急のロマンスカーに乗った。

学生時代に東京(横浜)に4年間いたのに、箱根方面にいくときはいつも、運転の練習という名目でレンタカーだった。いつでも乗れるだろうと思っていたら、一度も乗らないまま就職してしまった。

小田原駅から乗り込んだのは2005年登場の真っ白な「VSE」こと50000系。

お披露目された当時、「なんじゃこりゃ」とドン引きしたのを覚えている。

新興宗教っぽい、出っ歯まエイリアンっぽい、鉄仮面みたい。そんな違和感があった。台車や床下部分がカウルされて、ホバークラフトの上に白亜の城が無理やり乗っかったような出で立ちで、あきらかに浮くだろうと思った。今でも岡部憲明さんのデザインはあんまり好きじゃない。

でも小田原駅でホームに滑り込む、上の写真のような角度から実物を見たら、あれ、かっこいいじゃないですか。

なにより、その存在感は圧倒的だった。同じ私鉄の有料特急でも、西武や京成、近鉄や南海なんかとはまるっきり違う。同じく展望車が自慢の名鉄のそれと比べても、別次元に映った。

車内からも観察してみる。展望車両の大きすぎる窓は、さながら超巨大なプロジェクターだった。窓枠(ピラー)のない開放感はすごい。外の景色という映像をあふれんばかりに各席に届け、トンネルに入ればプラネタリウムのようなワクワク感を演出してくれる。

登場からゆうに10年を超えているのに、まだまだ車内外から視線を集めていた。JR西日本の500系新幹線みたいな感じに。おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんと一緒に乗り込んだ3歳くらいの男の子は「たまらん」という顔を浮かべていた。

シートはお世辞にも座り心地が良いわけでもなく、特段快適な設備があるわけでもない。でも、「ロマンスカーに乗っている」、という特別感は確かにあった。

箱根といえば温泉、湖、山とすぐイメージがわく。映像と結びつく。

ロマンスカーは、誰もが共有している箱根のブランド力に直結するんだろうし、「ロマンスカーに乗る」という体験そのものが、手に届く非日常の観光資源になっている気がする。1957年から脈々と走り続けてきたロマンスカーの強さなんだろう。

一平と三平の、ちょっと味なラーメンの話

ゴールデンウィークに北海道にいったとき、毎日ラーメンを食べることを自分に課した。

味の一平の特製(確か)みそラーメン

旭川、札幌、函館。それぞれ醤油、味噌、塩が有名だけど、なんでそうなったかはいろんな歴史があるし、文化としてまちに根づいている。だからそれを知っておこうと。

というのはうそで、旅行中は大所帯(7人)だったのもあって、嫌いな人がいなくて簡単にお店を選べて、食費もおさえられるから。

新潟から乗った行きのフェリーでは海老味噌ラーメンと塩ラーメン、旭川で飲んだ後には旭川ラーメン(しょうゆだと思うけど酔いすぎて覚えてない)、帰りに苫小牧東港に行く途中には千歳市で味噌ラーメンをいただいた。

いちばんよかったのは、千歳市の「味の三平」。

大学生のころ、高校時代の同級生を連れて卒業旅行を第2弾をやった時、貸し切りでお世話になったバスガイドさんがいま千歳市に住んでいて、その方に教えてもらった。いつも並んでいて、仕事のない日にしかいけないくらいの人気だそうな。ガイドブックとかに載っているのかは知らないけど、地元の人に愛されているのは間違いない雰囲気がプンプンしていた。

スタッフは全員が女性。6~7人くらいはいたはず。

けっこう熱いスープはほどよく濃厚で、ふんだんに盛られた、香ばしい野菜とバツグンに相性がいい。しかも変にくどくない。油がいいんだろうなー。縮れ麺は適度な太さでコシがあり、一口一口、噛みしめるように喉を通すことができる。コシはあっても麺がスープに負けていない。なかなか冷めないのもあるけど、時間をかけて食べたい気持ちにさせてくれる。今まで食べた味噌ラーメンで最高の好みだった。

静岡に帰ってから、毎日新聞の「麺食い 列島味便り」という記事を読んで、札幌味噌ラーメンが紹介されていた。「あっ、ここ行った行った!」と喜んだのもの束の間、よく見たら味噌ラーメンの元祖として書かれていてのは「味の三平」だった。

紛らわしい。。。姉妹店かとおもいきや、そうでもなさそうだし。

「一平」はホームページをさっと探しても見つからず、ストーリーとか女性だけでオペレーションする理由とかは謎のまま。

一方の「三平」はといえば、毎日新聞によると、旧満州で満鉄の乗務員をしていた大宮守人さんが創業。2代目のご長男によると「おなかがいっぱいになって栄養が取れて元気になるラーメンを」という思いがあった。戦地では東北や北陸の出身者が、保存食として焼き味噌を持ち込んでいたらしく、守人さんは「味噌を食べると健康になる」とスープに使うことを思いついたんだって。有名な西山製麺さんと一緒に、濃厚なスープにあう麺を一から開発して、讃岐うどんの本場も訪ねて研究したんだとか。

終戦後ならではのストーリーが泣かせるし、コンセプトが明快。

三平の店内はカウンター13席しかなく、目が届く範囲の対面にこだわっているそう。2代目の〆のコメントが秀一。「客との交流を通じて少しずつ変化している。今のみそラーメンを守るのではなく、時代に合ったものにしていかなければ」

かっこいい!これだけで即食べたくなる。

「一平」はどんなストーリーがあるんだろう。美味しくいただきながら、時間をかけて掘り起こしていうのも、また楽しからずや。旭川にもそんな店が待っているきがする。

学生も大学もローカル資源

今朝の読売新聞一面(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180530-00050152-yom-soci)をみてびっくり。私大が公立化することによって志願倍率が上がり、全国的に経営改善ができている傾向があるんだと。

へー。そんなこと想像もしたことなかった。

公立大の運営費は行政経費とみなされるので、規模に応じて国から地方交付税交付金が充当される。だから授業料を抑えることができる、そして・・・というからくり。

ふむふむ確かにそうだよなー

これとは別に国立大でも動きは加速している。

5月29日には小樽商科、帯広畜産、北見工大が、2022年度の法人統合をめざすことで合意した。少子化が進むなか、運営費の削減が目的。名古屋大と岐阜大、浜松医科大学と静岡大など、各地ですでに検討がはじまっている。運営交付金を減らしてきた国が再編を促してるので、今後も増えるんだろうと思う。

という風に大学業界はいま、本当に忙しい。

まぁこれまでと同じ状態ではいられない、という意味ではどこの業界も同じなのかも。

冒頭の読売の記事では北海道内の動きとして、旭川大学が公立化を検討していることと、千歳科学技術大が2019年度に公立化される、とある。

千歳の例は知らなかったけど、ゲストハウスの予定地から歩いて5分かからない場所にある旭川大の件はずっと気になってるし、地元ではけっこう大きなテーマになっている(地元住民になったつもりで言うと)。

地元で経済・社会の担い手になるような若者を増やしたい旭川市、学生を確保したい大学側。この点では思惑は一致してるようで。

私学だからこそ思い切って自由にやれる利点もある気もするけど、大学が公立化を求めてるってことは、なかなか現状は厳しいんだろうなー。でも公立化となれば、税金を投じる大義と丁寧な説明も求められるはずだし。。。と漠然と勝手に思っていたけど、調べてみるとけっこう前から、市民(民間)レベルの動きもあったようで。

旭川は日本の「五大家具産地」に数えられるほど家具づくりが盛ん。業界には地域色を押し出したい、っていう考えがあったようで、ずっと「旭川に公立『ものづくり大学』の開設を目指す市民の会」が活動している。地元の名士の方々も名を連ねていて、けっこう影響力がありそうな気がする。

どうしても縮んでいく新聞業界と同じで、他の会社とお客さんを取り合うようなやり方はもう意味がないし、疲弊して息切れするだけ。ファンは育たない。だから「市民の会」が打ち出した明確な方向性はおもしろいと思った。

北海道新聞によると、5月18日には市と大学、市民の会による3者協議が始まり、「ものづくり系学部案」について意見を交わしている。6月には方針をまとめて、市長は任期の11月までに公立化するかどうかの判断をするらしい。

どうなるか楽しみで、ウオッチしてきたい。

その一方で、いま現にいる学生さん、大学に対して地域は何を求めてるやろ?と興味がわいた。旭川大学は地域連携でいろいろ面白いことをやっていらっしゃるイメージが強いけれど、地域から見たら、どんな風に映っているんだろう。

逆に学生さんは地域や大学に、何を求めているんやろう。旭川大がどんな範囲で学生を集めているのか、学生は何を求めてここを選んだのか、どんなブランドイメージなのか、まだまだ知らないことだらけ。

地域⇆学生・大学、お互いの求めていることはちゃんとマッチできてるのか知りたくなった。地域は学生・大学を活かしきれているのか。公立化となると、お金の問題だけじゃなくて、そんな点も問われる気がするもんで。

これまでの記者生活で、いくつかの大学で、地域との連携を模索している様子を見てきた。愛知淑徳大、愛知県立大学、愛知県立芸大、名古屋学院大、南山大、愛知産業大、金沢大、石川県立大、金沢工業大学、金沢美術工芸大、静岡文化芸術大、静岡大・・・。

いちばん強烈な印象が残っているのは、かつて金沢大の学生で、今は「学生×地域」の挑戦を後押しする「株式会社ガクトラボ」を経営する仁志出憲聖さん。まちなかの古民家を改装して学生たちが活動する拠点「金沢学生のまち市民交流館」のコーディネーターもされてる。学生時代からもう、とんでもない能力と人柄で、あらゆることとつながってるイメージだった。フォローしきれないくらいの活動の幅。仁志出さんたちの活動は間違いなく、金沢市や地域を動かしてきたし、金沢=学生のまち、のブランドをつくってきたと思う。

いま浜松市にいて取材する機会の多い、冒頭の読売記事にもでていた静岡文化芸術大学も、すごいなあと思うことが多々ある。本当によく学生さんや先生たちが地域に出て活動している。今年2月には、国内で初めて「フェアトレード大学」に認定された。このフェアトレードひとつとっても、いろんなレベルで、組織で、草の根的に動いている。学生団体は市と協働して駅前とかでカフェを開いたり。いつもそのバイタリティに圧倒される。

学生さんたちの力はすごい。でもそれだけではなくて、大学側も自分たちの役割を認識して、地域になにが求められるのかを探ってる気がする。

地域の中で自分たちの大学がどうあるべきか、公立大だからこそ深く考えられるんだろうなーと、勝手に思ってる。金沢大はこのエリアを引っ張っていく使命があるし、県立の静岡文芸大も、市との連携もうまくいっているように見える。

その上で、じゃあどんなリソースを使うのかというと、やっぱり学生の力を置いて他にないと思う。

学生はニュートラルな立場なので、利害関係がやっかいなオトナ同士だけでやるよりも、間に入ることでスムーズにいくことも多い。別に失敗したってご飯が食べられなくなるわけじゃないし。

「こんなことをしたい」と学生が熱くなって、きっかけやヒントを授ける先生がいて、それを地域の大人たちがどう活かして、地域の課題を解決しようとするか。戦略的に考えるといろいろできる気がする。というか、したい!  旧市街地でのコミュニティづくり、地元林業と家具産業の深いコラボレーションとか。それで地域が楽しく、豊かになっておカネとヒトが回っていくのなら、税金は無駄にならないはず!

学生も大学も、地域(ローカル)資源なのは間違いないと思う。

祖父にもらった愛情のバトン

せっかく大学を出て入った会社、しかも大きく安定した会社を辞めて、素人が得体の知れない事業を始めると言ったら、親族なんかからはたいてい、こんな反応がある。「子どもが3人いて、育てられるの? ごはん食べていけるの?」「失敗すると思うけど」

そりゃそうだ。

親になってみて思うのは、まず心配することが親の仕事みたいなもんだし、リスクを飲み込んで子どもを信頼し、「本人が決めたことだから」と黙って応援するのなんて、めちゃくちゃ胆力がいる。そもそも自分のこれまでの経験の範囲でしか、良し悪しも見通しも判断できないだろうし、経験を超えた未知のことを目の前にすると、普通は思考停止になっちゃうだろうなと思う。

5年前に結婚した時、自分の父方からは猛反対に遭って、事実上の縁切りだった。

「死ぬまで会いたくない」と言われて実際に葬式まで会えなかった祖母もいて、かなりきつかった。でも今なら「みんな幸せにやってるよ」と胸を張れるし、その状態をキープしていかなきゃと、気が引き締まる。原動力になる。祖母も意地悪したくて言ったわけじゃないし、それぞれの考え方でかわいい孫を心配してのこと。

一方で驚いたのは、母方の祖父が、血のつながっていない今の長男(大滋)を最初に紹介した時からかわいがってくれ、「浩司(わたし)が大滋を自分の子だと言うなら、俺らのひ孫だ」と受け入れてくれたこと。妻(茜)に対しても「浩司がいい人と思うなら、そりゃいいんだろう」という風だった。母方の祖母もそんな感じ。

これにはやられた。反射的に尊敬し、誇らしくなった。

めちゃくちゃ心強かったし、「こんな風に子どもや孫を認められるような、愛情深い親になりたい」と激しく誓った。そう言ってくれたから、なんとかやってこれた。

認めてくれる人が少数でもいるなら、もっと他の人にも認めれるように結果を出すまでだなと。

はじめから理解されなくても、プロセスと結果を見せることで、ちょっとずつ理解を広げていく方法はアリだと思う。もちろんいろんなハレーションや、失うものもあるけど、賛成ばかりというのは誰でも思い付くことで面白くもないし。

いま愛情深い親になったかどうかはおいといて、子どもにどんな事を伝えていくべきなのか、っていうのは、それなりに考えてきたつもりではいる。

小学校の予備校みたいな教育は幼稚園に求めないし、画一的な設備に囲まれた園庭よりも自然に囲まれて遊んでほしいし、(本人たちが望めば別だけど)絶対に受験戦争で戦わせたいとは思わないし、「みんなが行くからとりあえず大学」に違和感を持ってほしい。アタマより五感を発達させて、きれいなもの、本物にたくさん触れてほしい。反面教師にしてほしい、というのもあるけれど。

「ここでは足りないな」「違うな」と自分で思うなら東京や海外に行けばいい。親の希望なんて聞こうとしなくていい。親は時には歯を食いしばって我慢し、認めて受け入れ、後ろからそっと手を添えるくらいが丁度いいのかな、というのが今の気分。というか究極の理想。

「新しい仕事と暮らしをはじめて、大学に行かせられるくらい稼げるのかしら」と思ったこともあるけど、奨学金もあるし、最低限の備えがあれば、なんとかなるはず。甘いと言われるかもしれないけど、そう思うんだから仕方ない。大病にかからず、働ける体なら、必死に働くことはできる。

あした死ぬかもしれないし、世の中はどんどん複雑に不透明になってくる。人間は自然だけじゃなく、人工知能にも向き合って共生しつつ、「人間」を見つめ直さないといけない。

確かなことなんて何もないんだから、自分で考えて自分でリスクを取って楽しめる人になってほしい。親としてはお金よりも、そんな環境や雰囲気をつくりだしたいし、親のやっていることを見てほしい(失敗したらごめん)。

新天地でその一歩を踏み出せるかどうか。そんなドキドキの場所に、いまわが家はいる。

大ナゴヤ大学というコミュニティー

29日(火)は名古屋本社へ出張。名駅から名古屋城近くの丸の内までのんびり歩いていると、8年前の楽しい記憶がよみがえってきた。

新聞記者になったのが2008年、初任地は愛知県の瀬戸支局というところだった。

焼き物のまち・瀬戸を中心に尾張東部を担当していて、休みの日なんかは名古屋・栄をぷらぷらしていた。

就職するまで名古屋といえば、関西出身の自分にとって、「東京でも大阪でもないところ」「最初は『のぞみ』に通過されたところ」くらいの印象しかなかった。

あとはきしめん、味噌カツとか。中学の時に地理の授業で、教師が「おみゃあ、えびふりゃあ」とか言って笑いを取ってたのはよく覚えてるけど。

ということで、それ以外にはナゴヤの印象はあんまりなままだった。でもそれが急に、彩り豊かに、おもしろいまちだ!と思えるようになった。

なんでかって、「大ナゴヤ大学」を取材したから。

校舎や特定の教室をもたない、まちじゅうがキャンパスという学びのコミュニティー。オシャレな生涯学習みたいな感じで、誰もが先生になれる。繊維街の魅力発掘、大須の住職さんのはなしを聴く、味噌蔵を歩いて回る、知る人ぞ知る市場で買い物する、ビール工場に入る・・・。

あらゆるテーマでいろんな人が先生になり、好きな授業に参加する。

まちを知り、いろんな人と会い、眠った地域資源を掘り起こして、ナゴヤの魅力を再構築する。ゆるいつながりを純粋に楽しんで、たとえ飲み会に行くだけでも〝単位を落とす〟わけじゃない。参加者同士、気づけば仲良くなっている。

一方で運営にたずさわるコアメンバーは、ナゴヤを代表する高感度な人たちばかり。  めちゃくちゃ真剣にブレーンストーミングとかやってるけど、めっちゃ楽しんでる。顔が疲れてても、ひたすら楽しそう。職種もバラバラ 。ただこのナゴヤという街が好きで、面白そうだからやってるんだろうと思う。だから人が人を呼ぶし、参加してる人にも伝染するんだろうと思ってた。

どんどん人気を集めて生徒数が増えていたので、直接関係のない瀬戸支局員ながら、取材を敢行。名古屋市内の取材は基本的に社会部がやるので、一部では「道場破り」って言われたけど、こんなに面白いのに書かないならしょうがないでしょ、と。夕刊1面にドーンとでて、自分の中ではけっこうな満足感があった。若気の至りでほんと恥ずかしい限りだけど、「大ナゴヤ大を発掘したー!」と勝手に思ってた。

初代学長の加藤慎康(シンヤス)さんは立ち上げですごい苦労をされたと思うけど、柔らかい包容力があって、まわりのスタッフに心から愛されていて、取材者としても参加者としても、「なんか輝いて生きてるなー、いいなー」って見ていた。こんな大きなまちで、大御所をふくめて人を巻き込めるのってすごい。そして自分の中で、ソーシャルなことへの関心がモクモクと立ち上がってきた。

今思えば、まち(地域資源)と人(人的資源)をみんなでシェアしているような感覚。それぞれの得意や興味を持ち寄って、みんなにおすそ分けするような。いま流行りの、小商いにも通じるのかな、と思う。

自分が大切にしている、「いろんな人がまじって、公共空間を豊かにする」ってことと、完全に一致してる。別に小難しいことを考えなくたって、子どもみたいにワクワクして楽しんでることの積み重ねが、まちを彩ってる。サイコーです。

姉妹校は元祖のシブヤ大学(東京)とか、札幌オオドオリ大学(北海道)とか、全国にいくつかある。札幌ものぞいてみたいところ。

規模とか仕組みはこれらとは違うけど、ゲストハウスの予定地からみれば似たような名前の〝大学〟もある。有名な景勝地・層雲峡のある上川町で開かれる、期間限定の「大雪山大学」。今シーズンのコンテンツが発表されたら、とりあえず遊びにいこ。列車でもいけるので、日本で一番新しい酒蔵がつくる日本酒でも学びにいこ。

知る、つながるってことも立派な体験。コト消費。

ツーリズムと親和性がないわけないので、いろいろ絡めていこう。

もっといえば、ゲストハウスを基点に学び合う企画もしたい。もう温めてあるけど、なんとか形にして、自分が一番たのしんでやろう。

シンヤスさんはいま、岐阜県美濃加茂市で「まちづくりコーディネーター」として活躍されている。久しぶりにメッセージを送ったら、相変わらずステキでした。シンヤスさん、これからもいろいろ教えてくださいー