ドタバタの引っ越し&最後の夏休み

ドタバタしない引っ越しなんて経験したことないけど、今回ばかりはすごく特殊なケース。

前日になっても搬入日が決まらないまま、荷出しの10月5日がやってきた。

こちらも梱包が終わってなかったので偉そうなことは言えないけど、5日になって業者からようやく「12日になりました」と連絡が入った。

午後2時からの荷出し予定だったけど、午前中の現場が遅れたとかで到着は夕方5時に。現場のお兄さんたちはすごく気持ちの良い人で一生懸命やってくれたけど、いかんせん2人しかいない。これじゃあ、どうしたって遅れるよね。

普通に運び出せば2時間、最長でも3時間と聞いていて、マンションの部屋のオーナーの立ち会いをお願いしていたけど、「なんだ。全然だめだな、これ」と捨てゼリフを吐かれて流れてしまい、けっきょく作業が終わったのは23時5分。

この日は東京のゲストハウスで勉強する予定だったけど、途中の段階でレイトチェックアウト(+1000円)の25時も間に合わないことがわかって、泣く泣くキャンセル。

こういう時に頼れるのは、気のおけない友達しかいない。磐田に住む尾高家に夜9時すぎ。「ゲストハウスだめだったら、泊めてくれない・・・?」と妻から。みなちゃんは二つ返事でオッケーしてくれ、日付が変わったころに押しかけてしまいました。おつまみとゴミ袋をお土産に💦

けっこうぺちゃくちゃしゃべり、自分はソファーで寝させてもらって、翌朝は8時前に出発!わざわざ朝ごはんまで作ってもらって・・・。ありがとー。これから人生最後の夏休み、いってきます!

尾高家で記念写真

掛川で、「互産互消」のポテンシャルを知る

(左から)佐野デスク、筆者の松本、佐藤さん

「地産地消」ってもはや聞き飽きた感があって、ゲストハウスの食事や使う木材の話をするときも、自分からはあんまり言わないようにしている。もう市民権を得た言葉だし、本来は当たり前のことなので。。。

この地産地消に比肩するというか、むしろ新しい言葉に出会ったのが9月中ごろ。会社の大先輩の佐野デスクと飲んだとき、「互産互消を静岡と北海道でやっている人がいる。松本さんにぴったりだと思うので、会いに行きましょう!」とおっしゃった。すぐに盛り上がり、紹介してもらうことが決まった。

互産互消という言葉はこの時初めて聞いたけど、イメージはすぐ湧いた。自治体間でよくあるナントカ協定とかではなく、民間レベルで商いや人の流れをつくろうというもの。いちいち東京を介さない、ローカルtoローカル。それぞれの生活文化をシェアしあう感じ。しかも静岡×北海道ときた。

で、静岡県で大規模停電があった次の日の10月2日、掛川に「合同会社  互産互消機構」の佐藤雄一さんを訪ねた。もちろん、佐野デスクと一緒に。

佐藤さんからは商慣習の類似点、商圏、静岡にかけられている期待、互いのマーケットから見た潜在ニーズ、サイクルツーリズムの可能性などなどうかがった。旭川では深く事業展開をしていないようで、今後、連携できることを探っていきましょう!となった。新しいご縁もいただいた。楽しみー。

事務所を出たあとは、掛川駅の近くの粋な居酒屋「酒楽」で一献。 漁師さんから直接仕入れてるらしい刺し身がめちゃんこ美味。毎日でも通いたい飲み屋に、久し振りに出会えた。ごちそうさまでした!

 

 

管理棟の絵が見えてきた!

10月2日は松本憲さんの事務所で打ち合わせ。コンテナハウスが頓挫して、住宅(兼 管理棟)も憲さんのところでほかの建物と同様にお願いすると決まったのが9月25日、コンテナハウスのメーカーと破談になったのがその2日前だから、なんという、恐ろしいほどのスピード感! 睡眠時間やお子さんとの時間を削って仕上げてくれたであろう、奥さんのしのちゃん、憲ちゃん、所長、ありがとうございます💦

提示されたのは、この図面。

図面のほんの一部

「どうですか?」と言われて、もう「どうもこうもありません」と答えるのがやっと。限られた敷地と予算、「旭川公園」全体の世界観との統一性をぜんぶ満足してくれて、動線やレイアウトも素敵すぎて・・・。

よく、「期待以上、言われた以上のことをしてこそ仕事」みたいに言うけど、それを字でいくようなクオリティの仕事に脱帽&感激!組む相手によって、こうも違うものなのか…。

お気に入りのポイントはいくつかあるけど、一番大きいのはリビングからの景色と、宿泊棟・広場との動線。

景色といっても絶景があるわけじゃないけど、ご近所の家の向こうにそびえる大雪山の方向に、出入り口にもなるリビングの大きな窓があって、それが空き地を向いていて。なおかつ、ウッドデッキを(すぐじゃなくてもいつか)設けることで隣接する宿泊棟からのアクセスがしやすくなるし、デザイン的にもつながりを感じやすい。

それに、ペレットストーブの配置や小上がりの和室も最高の。これが、宿泊棟・広場から(カーテン閉めてない時に見ようと思えば)見えるようになっている。

直前の25日の打ち合わせでは、あくまで平屋にして、2階部分は将来的にロフトのようなものを設けられるような余地を残しておこう、という方向でまとまったけど、所長の方からは「一番大事な予算のことはあるけど、どうせなら最初から入れるプランにしました」と説明をいただいた。2段ベッドを置けて、ゆくゆくは子どもの机を置けるようなスペースや納戸やらを、秘密基地のように控えめに配置する提案をしてもらい、「そりゃあもう、2階はあったほうがいいに決まってますので」と即決。

すごく効率的で機能的なレイアウトで、狭小住宅ならではの「小さな暮らし」ができそう。これなら楽しくモノを減らせるし、減らした甲斐があったなぁ。これは〝間違いない管理棟〟になりそうだわ🤗

史上最大の断捨離

引越し前日の我が家の風景(恥)

浜松からの荷出し作業は10月5日と決まっていたものの、一週間前になっても旭川での搬入日が決まらず、それと関係ないけど作業も遅々として進まず。「子ども3人いるからなかなかね」「生活しながらだと限界あるよね」と温かい言葉をいただくけど、最大の理由は、本やノートや写真やらに気をとられるからであります。

「これ、取っといたら絶対あとで見返すと思う」「捨てるともったいない」

こういう思いがすぐ頭をもたげて、しばし鑑賞タイムに。これ、今までの引越しと同じダメなパターンで、時間だけがかかって一向にモノが減らない。

大学生のころ使ってたノートパソコン。データの移行とかで4時間くらいかかってしまった。懐メロがたくさん入っていたのも作業スピードを遅らせた

部屋が大きいとムダに荷物が多くなる。3LDKの浜松のマンションはモノを増やすのに格好の場所だったけど、今回は3トントラックで格安で運ぶので、かなり減らさないといけない。しかも「旭川公園」が完成した暁に住む管理棟は、5人家族が暮らすとは思えない狭小住宅。憧れの「小さな家」になる。だから、心を鬼にして断捨離することにした。

捨てる基準は、「浜松の3年間で一度も使っていないもの」「北海道に移ってこれがないと生活できないとは言えないもの」。作業すれば、ほとんどがいらないものだったことが分かってしまった。

だから仕事でお世話になったスイフトも、ノート類も、あっさりお別れ。社会人3年目くらいまでは、一冊1900円くらいした高級メモ帳「モレスキン」を使っていたので、隔世の感があるしもったいないとは思ったけど、歯を食いしばって。

お世話になったノート類の一部

クルマはさすがに売却代金や、所有するとした場合の運搬費・税金・保険・スタッドレスとかもろもろ計算したけど。ビッグモーターで10万円で売れたので、御の字ということで。寂しい気もするけど、これからの茨の道のことを思えば、ささいなこと。うん。

 

 

 

人に会うたび力になる

武田さん夫妻

九月の最終週は、お世話になった人への挨拶行脚。

トークセッションから一夜明けた25日は夜、会社の同期が開いてくれた送別会にはせ参じる。モンベルのかっこいい防寒着をプレゼントしてくれた!   これで今年の初めての冬は乗り切れそうー。26日は愛知県方面。学校や幼稚園が終わってから高速に乗って移動して、夜は初任地・瀬戸支局の皆さんと地元の名店・南大門で焼き肉。大先輩ばかりだけど、一緒に仕事をした、気心の知れた(と自分では勝手ながら思っている)方たちとの話は落ち着くし、根拠のない自信を持たせてくれる。ありがたや。

南大門の〆に欠かせないラーメン

27日は急きょだったけど念願かなって、特別な場所である岐阜に行くことにした。10年半勤めた新聞社は、入社後、7月いっぱいまでが研修の期間。その締めくくりに、新聞を配る販売店さんに40日住み込みで勤務する。この業界でも珍しい、自分たちの仕事が誰によってどう成り立っているのかを教えてもらう最高の研修だと思ってます。

自分は岐阜市のタケダ新聞店(武田健以知社長)でお世話になって、めちゃくちゃ濃い時間を過ごさせてもらった。地元の祭りでは地域の皆さんとたらふく飲み、ビルの空きフロアで映画を見て、武田社長にもいろんな所に連れて行ってもらった。飲みすぎて起きられず寝坊して大目玉をくらい、作業場の扉の前で仮したこともあるし、一緒に銭湯に入って諭されたこともある。地域の中で仕事をすることや、多くの人それぞれに役割があること、若い人にチャンスをあげて育てる人がまちには必要なこと、いろんなことを教わったなぁ。

この日も10年前と同じようにまちを歩いてみた。駅、居酒屋、台湾料理屋、工場、名鉄の踏切・・・。眺めていると、当時の気持ちが一緒に蘇ってきた。「あぁ、ここが自分にとって最初の社会だったな〜」とやけにしんみりした。

武田社長は、豪傑かつ気配りの人。今後を心配してくれ「 誰も言わんだろうから、苦言を言ってやる。お前は欲しいものはなんでもすぐに欲しがるからな。欲を出すな」。今でもかわいがってくれて涙が出る。

いわく。

商売で人を呼び込めるかどうか、人の流れをつくれるかは潮の満ち引きと一緒なんだとか。無理に引っ張ってくるものじゃなくて、いかに自然に引き寄せるか。変に狙っちゃいけない。なるほど、、、潮とおんなじだ!すごい。

だから、なんかおもしろいことをやってるなー、と思わせる空間づくりが欠かせない。やっぱり「旭川公園」の広場ではバーベキューをどんどんやるべきだろうと。うんうん。

宿泊だけやっていてもダメ。血液の流れが悪くならないように、つねにアンテナを張って、先手先手で新しい情報を発信していかないと意味がない。たしかに。

3年は無心でやれ。欲張るな。先に結果を求めず、一歩ずつ焦らずにやれば、結果はでてくる。と。はい!

帰り際、「また遊びに来いよ。なんかあったらすぐ電話をしろな。味方はおるでな」と、肩に手を添えてくれた。これで感極まらずにいろっていうのは無理でしょう。

そのあとは岐阜駅のドトールで、この会社に入るきっかけをくださった大先輩とお茶。会議の合間をぬって駆けつけてくださり、「コミュニティに入っていけば大丈夫。会社との縁は切れても、人とのご縁は大事にしていけよ。お子さんを育てるにもいい環境だろう。北海道の皆さんは寛容で、受け入れてくれるから」とアドバイスをくれた。

人に会うたびに、強くなっていけるような気がしてきた。このご縁を、もっと太くしていきたい。

ハローアゲイン旭川を叫んだ、浜松のトークナイト

3年前まで住んでた金沢を再訪する旅を終えると、一路浜松へ。この日の夜は、トークイベントが開かれるので。

お題は「なぜ⁉︎  個人が旭川に公園をつくるのか?

いつもゲストハウスづくりでお世話になっているメンバーは普段、「浜松PPPデザイン」というグループをつくっていて、まちづくりの文脈で活動されてまして。そのPPPとしてイベントを開いて私がしゃべる機会を設けてくださり、同年代の人たちが手伝ってくれて盛り上げてくれたのです。

photo:鈴木裕矢 (カラオケの写真以外)

北海道庁のビジネスコンテストでやったプレゼンをベースに計画をお伝えし、PPPの皆さんが突っ込みや補足を挟んでくれるセッション形式。 いくつか質問もいただき、「一番のターゲットに据えている関東の30代女性が、地域の人と交流するというのは、聞いただけではイメージにしくいけど、どういうこと?」「価格設定はどれくらいにするのか」などなど。初めての人に話して反応をもらえるのって、ほんとうにありがたい機会。どんどん増やさねば。試食用でちょっぴり出した、旭川公園オリジナルの味噌グラノーラは、すっごく評判がよく、楽観的かもしれないけど手応えを得たり。

妻からは「グラノーラは反応良かったね。トークはう〜ん、なんかウワーって喋って終わった、みたいな感じ」と正しい指摘が飛んできた。聞いてる人のことを考えてしゃべり方もスピードも調整しないと。反省。

1984年生まれのメンバーがやってるタイムドリップコーヒーさん(https://m.facebook.com/TIME-DRIP-COFFEE-380661939012571/)や自転車屋のハッピースラッピーさん(https://ja-jp.facebook.com/happy.Slappy.hamamatsu/)たちが出してくれたオニギリスタンドとドリップ味噌汁、フリーの日本酒も大好評。投げ銭をしてくれた皆さま、ありがとうございました! すてきなご縁もいただきました!

まちづくりやリノベーションをやっている浜松の方や、会社の後輩とか多くの方に来ていただき、さながら壮行会にもなった。終わった後は、久々に未明までのカラオケ。90〜00年代を中心に。締めの曲はマイラバ(My Little Lover)のハローアゲイン。ハローアゲイン@旭川を合言葉に、心地よい疲労感でジャンカラを後にしたのでした。

 

足りなくなると、考えるようになる

こないだ行った旭川では、道路が陥没するとか、何かが倒れるとか、地震による目に見える被害というのは全くなかった。震源地から遠いこともあって、発災後にしばらく停電したくらい。農業とか工業ではひどい影響もあったけど、それもやっぱり電力不足に起因するものだった。列車の運休も甚大になった。

ゲストハウス「旭川公園」最寄りの永山駅で。こんな張り紙を発見。まだまだ大変だ

この電力不足がなかなかに深刻で、札幌駅のコンコースは昼なお暗い感じだったし、旭川のまちなかの店では、至る所で上のローソンの写真みたいな張り紙がしてあった。

でもふと思った。本当にコンビニって24時間営業しないといけないのか。飲み物の自動販売機ってあんなに煌々と存在感を主張しないといけないのか。

「それがお客さんの求めていることだから」と言われたら返しにくいけど、だったら客側も変わった方がいいのかなと。東北の震災で、けっこうみんな痛感したことだけど。

いつ店に行っても営業してるから買うわけで。でも、その営業を支えるために、膨大なロスが生じている。エネルギーも、食べ物も、労働力も。ローソンでは、キンキンに冷えた陳列棚でお弁当やオニギリが客を待っていた。もう、ほとんど平時に戻っているので、この弁当とオニギリの争奪戦が繰り広げられるわけじゃない。きっと売れ残るんだろう。それを消費者は、いまどき良しとするのかしら。

電気が止まったのなら、これまでの「普通」をちょっと角度を変えてみるのも案外楽しい。

いま住んでる浜松でも、台風24号が過ぎ去った10月1日の朝、広範囲に停電して信号が至る所で消えていた。いつも「青」をめがけてセカセカ通りすぎるだけの交差点だけど、みんな徐行して、ドライバー同士がお互いの目を見て、譲り合っていた。わずらわしいし、それどころじゃない人が多い状況ではあるけど、大事なことだなと思う。

 

ふだんの金沢に逢いに行く旅

二泊三日の旭川から帰ってきた次の日からは、また二泊三日で久々に金沢へーー。浜松で働く前は4年間、金沢にいたのでお世話になった人も多く、もともと親戚が石川県内にたくさんいるので、ご挨拶行脚を兼ねた旅。

親戚に退職&移住&ゲストハウスの話を打ち明けると、漫画のように「えーーっ」という反応。でも自分の父親とは違って、なんでそんなことを考えるようになってしまったのか興味を持って聞いてくれ、最後は「一度きりの人生だから」「体だけには気をつけるように」と理解してくれて、きもちよく送り出してくれる。ちゃんと軌道に乗せて、また笑って挨拶に来れるようにしないと!と決意をあらたにする。

1日目の夜は、北陸本社の先輩方とソウルフード・第七餃子。トライアスロンや鉄人レースで自衛官より強いアスリート兼ジャーナリストの先輩は、この日のトレーニングでアキレス腱を断裂するも、松葉杖をついて参戦してくださった。

※著名人のため顔出しNG

 

なんか、いつでもまた会えるような気がするので、そんなしんみりせず、別れ際も気持ちよく。2軒目では、自分が学生時代に通っていた東京・恵比寿の立ち飲みバーで働いていたお姉さんも合流。なんと、その店の常連で旭川の木工作家さんがいるらしく、さっそく紹介してもらった。どこでどう繋がってるか、恐ろしいくらい分からんもので。

滞在中は二泊とも、長男・大滋(たいし)が通っていた石川県立・明和特別支援学校のお友達のお家でお世話になることに。もはや定宿と化していて、たいへん恐縮ながら、どのホテルよりも落ち着く場所。「あ〜帰ってきたなー」と幸せになる場所。いつもありがとうございます。子供たちも、久々の再会にハイテンションをキープ。他の学校友達も翌日に来てくれてパーティーしたり、ママ同士で深夜の女子会に行ったりして、ほんとにいい時間を過ごせました。 会うたびに、会うたびに、力になってますホント。

最終日は、同じ大学の池田センパイのお宅(新築)訪問&ランチ。金沢時代、なにからなにまで一番お世話になったと言える先輩で、ずっと懇意にしていただいている。とある茶屋街の一角に、「えっ、こんなとこに住宅があるの?」って思う路地にオシャレで遊び心あふれる、リノベーションされた町家だった。住みたい!

茶屋街を散策。懐かしい。3年前まではこれが日常だった

ご飯は、ひがし茶屋街入り口にある「とどろき亭」で。安定してめちゃ美味。「おいしい洋食なんて何年ぶりかしらー?」と文字通り舌鼓。

初めて二階のステキ個室にも入れて最高な時間!    ごちそうさまでした。

 

コンテナを凌ぐコンテンツの家づくりへ

(つづき)

コンテナハウスは幻に終わったものの、「旭川公園」グループのメンバーから心配の電話をもらい、「これは前向きに考えるしかないですね」「もっと良くなるためのステップでしかない」という感じで一致団結。けっこうすぐに気持ちを切り替えることに大成功。

もともと、木造の宿泊棟(小屋=タイニーハウス)とコモン棟とのデザインの統一感を考えると、コンテナより木造のほうがいいんじゃない?っていう意見もあったし、空間として1つの世界観を出すには、同じ人に設計・施工をお願いしたほうがシンプルで美しい仕事になると確信。

松本憲さんからの提案もあって、施工は住宅以外の建物と同じくyomogi8さん(中村直弘さん@北海道)に頼もう、となって意見が一致。信頼できる、気持ちを一つにしてやってきた仲間たちとの仕事は速いし、なんといっても気持ちいい。「これは間違いないな」っていう安心感が半端ない。

この、いくつかのやり取りがあったのが23日。そんで、25日は憲さんの事務所(浜松市のフォルム建築設計室)で所長さんを交えて打ち合わせ。ものすごいスピード感!

この場で、こんな事態になった背景をおさらいし、法的にやっかいなことがあるとご説明。そしてすぐに、フォルムさんの方で設計を進めてもらうことになった。とけない根雪が積もる前に基礎を打てたら打とう、という、これまでとほぼ同じタイムスケジュールも確認。なんと!!

「寝室」「リビング」と部屋の用途を限定しない間取り、二階建てをやめて平屋にすること、将来的なロフトの増設余地、洗面所と独立したトイレ・・・。こっちの要望はあちらの提案が、スパっ、スパっとはまっていく。楽しい!さっそく図面を描き始めてくれ、そのライブ感に卒倒しかけた。

描いてくれるのは、憲さんの奥さんのしのちゃん。「こんな経験なかなかできない。『まぁこんな感じかな』って済ませたくない。『ここまでやったから!』と思えるくらいやらないと気が済まない」とは本人の弁。うれしいなあ。

そしてそして、たった二日間を挟んだ28日、憲さんから「平面プランができてきて打ち合わせを」「最低限の極小住宅プランで満足してます」とメッセンジャーが入る。これは間違いないものができてるなー。こんなスピード感で住宅ができるなんて、もう感動しかない!

これまでの100倍くらいのスピードで進み始めたので、一気にテンションが上がってきた。住宅をめぐるドタバタも、最良のゴールに向かうための必要なプロセスなんだなー。少なくとも3年後くらいには、心からそう思いたい。

(おわり)

 

 

コンテナハウスは夢のまま幻に

9月23日朝10時すぎ、旅行先の金沢。コインランドリーで洗濯物を放り込もうとしたら、スマホが鳴った。今年春から相談をしていた、八王子にあるコンテナハウスのメーカー社長からだった。

今回のゲストハウス計画は、全体で5つもの建物を1つの敷地に建てるので、建築基準法上、なかなかやっかいなパターンだった。複数のものを同時に同じ敷地に造ることができないので、住宅を管理棟として位置付けて、そのほかと従属関係を持たせないとクリアできない。だから、住宅とそのほかの部分で設計者が違うと、誰か代表を置いて市役所に申請を出さないといけない。誰でも好んでやってくれるわけじゃない。だから一緒に楽しんでくれる人とやらないといけない。

その住宅をコンテナ(海上輸送コンテナではなくて、建築用のコンテナ型重量鉄骨)で建てようと思って、ずっと計画を練ってきた。でも、担当の人ががなかなかこちらの意図や事情を理解・伝達してくれず、数ヶ月単位で時間だけが過ぎていき、設計にも全然話を通しておらず、あまり意味のない打ち合わせをすることもあった。そのたびに、八王子まで片道3時間以上かけてお邪魔していた。

電話をくれたその社長はステキな理念をお持ちで、推進力があり、おもしろがる能力に秀でていて、正直かなり惹かれていた。でもその社長には、土地利用の事情がきちんと伝わっていなかったようで、この時の電話では「こちらは特殊な工法でコンテナハウスを造るので、守秘義務のこともあって、ほかの設計者と組むことはできない。住宅とそのほかの部分とを分けて申請すると思っていたけど、今回のような形なら協力はできない」ということだった。

え?   それ、いま言う?

ここ一週間くらいで担当の方が社長にケツを叩かれてやっと動き出したと思ったら、組織内でぜんぜん認識が共有されていないことがだんだん分かってきた。前日22日も「え?それ今までに言ってますよね?」ということを電話で何度も聞かれ、挙げ句の果てには「いま言ったことをメールでまた送ってほしい」と訳の分からないことをおっしゃる。そのたびに、長い、長いメールを送らないといけない。

思わず乾燥機を蹴飛ばしたくなって、関係各所に「コンテナハウスがダメになった」と連絡。

間違いなく、これまでで最大のピンチであります。

住宅が建てられなければ、開業はできない。これまで、雪が降る前に基礎を打つというスケジュールでやってきて、それを信頼し、見越して退職時期を決め、いろんなことを調整してきた。それが全部、振り出しに戻ったかたち。

担当の方は、こちらが金沢や名古屋にいる間、二度浜松に足を運び、詫びを言いたかったみたいだけど、一からやり直さすために動かないといけないので、当然そんな時間もなく。メールでいろいろと苦言を言っても、「お優しい言葉、有難うございます」と来て、あーほんとに伝わらないことってあるんだなぁ、としみじみ。これまでのモヤモヤが妙に納得できたし、「多分この方は、一応こっちの人生もかかっていたプロジェクトなんだと理解されることはないんだろうな」と確信。こちらに甘さがあったし、「なんかおかしい」と感じた時に、方針転換しておくべきだった。

まぁなんかやろうと思えば、予想外にいろんなことがある。そのたびに自分も試される。いい勉強にはなった。

そしてこの話がおもしろいのは、これで気分が沈んだままにならなかったこと。すぐに信頼できる仲間と前を向いて、新しく最良の道を見つけることができた。(つづく)