鳥取の山あい、八東駅前に名店を発見

(つづき)

パーリー建築の皆さんと浜村温泉でバイバイした後は、保木本さんの車に乗っけてもらい、鳥取・智頭方面へ。なんと、今晩の宿と、保木本さんの自宅が同じ町だったので!

鳥取道(無料区間)の河原インターを出て下道をずっと行く。やがて山あいのところに差し掛かり、街灯が全然ないところが続く。懐かしいなぁ、この感じ。夜が暗いって当たり前のこと。それぞれのおうちも、電気が漏れてない。

宿の人におススメされていた(周辺に飲食店が少ない)のは、若桜鉄道・八東駅前にある「中嶋商店」。昔ながらの駅前商店といった感じで、引き戸を開けると、お菓子やらカップ麺、生活雑貨の陳列棚がまずあって、その奥で鉄板がこちらをうかがっていた。そんな店構え。

こちらが「まだ大丈夫ですか」と声をかけると82歳のご主人がじっと座っていたけどおもむろに立ち上がった。気の利いた音楽やラジオの一つもない、静寂が支配する、ちょっと薄暗いカウンター。

もう、この時点で雰囲気にやられた。駄菓子屋の奥に、イートインコーナーがある感じ。お店の人とコミュニケーションしないと、食べ物にありつけないような、秘密基地感。

たまらないね、手書きメニュー

聞けば、お店は80年になり、鉄板はご主人が始めて50年になると。ゆっくりゆっくり、噛みしめるように冷蔵庫に歩いていって、時折「おーい」と奥さんに助けを求めながら、手慣れた風ではホルモン焼きそばを焼き上げてくれた。

まるで餃子のたれのように、いつから継ぎ足してるか分からない秘伝っぽいタレが運ばれてきた。たまらず勇気を振りしぼって「ビール、、、あったりしませんかね」と聞くと、またゆっくりゆっくりと冷蔵庫から取り出してくれた。メニューにはなかったけど聞いてよかったー。

タレがよく絡み、ホルモンの滋味深さとコリコリが主役級で、たまらなくうまい。再訪必至レベル。汽車(地元の人が若い人もみんなこう言う)の時間まで10分ちょっとしかないので、急いで食べたのが悔やまれる。

ご主人は何度も「若いから、な」と繰り返し、北海道の話をするとオーバーリアクションよろしく驚いていた。ともかくも、自分の中で焼きそばでは3本の指に入る名店だわ。

ご馳走さまをして、大雨の中、急いで八東駅へ。15秒くらいで着いた。でも定刻になっても、待てど暮らせど列車は来ない。雨の影響かと思い込んでいたけど、スマホで「乗換案内」を見てがっくり。八東駅→隼駅とすべきところを、逆にして検索していた。で、1時間半待ちが決定。有形文化財の駅舎を撮影したところでスマホのバッテリーがなくなり、おとなしく新聞を読み、靴下を乾かし、ゲストハウス「旭川公園」に思いをはせる。

八東駅、有形文化財の価値を感じるには十分すぎる時間を過ごせた

こういうの久しぶり。昔、中高生、大学生のときは旅とはずっとこうだった。待ち時間というものがない車移動でもないし。何かに追われるでもなく、静かに待つ時間。これは貴重だ。最近の出張や今回の旅でも、スマホばかりに気を取られてたなーと反省。これじゃ気づくことにも気づけない。

(山陰の旅はまだまだ続く)

鳥取でパーリー建築のミラクルを見た

(つづき)

商店街をぐるっと見てから、鳥取駅に戻って普通列車に乗り込む。目指すは高藤宏夫さんが作業していた浜村温泉。ご本人は用ができてすでに現場を離れたけど、「パーリー建築」さんがいると聞いては、行かないなんてあり得ない。

まずは腹ごしらえ。駅から歩いて10分くらいの自動車屋さん「ホット・エアー」がラーメン屋をやってると高藤さんに教えてもらい、直行。インパクトある外観!

これは知らないと通り過ぎるわ。人通りの多い立地じゃないし
どう見たってうまい。

味も負けずにインパクトある。「贅沢極み塩」1000円。鹿野地鶏のアブラとかを使ったスープで勝負してる。鳥取豚レアチャーシューも激ウマ。噛んで噛んで幸せ。すごいこだわりと完成度、自信。こんな自動車屋やん見たことない。

見てるだけでおいしいので、もう一度

当然の義務として完飲して、罪滅ぼしとばかりに歩く、歩く。とりあえず日本海に向かって。

国道9号にでると、鳥取らしい河口の風景が広がっていた。

砂が堆積して、その上にかわいいクローバーみたいな葉っぱが
防風林の赤ちゃん(とみられる)

国道を、教えられた地点にむかって歩くも、これといった建物は見当たらず。ボロボロの製材所が道路脇の下がったところにあったので、入って尋ねることにした。入り口を入って、「すみませーん」と声をかけたら、あぁ、パーリー建築さんっぽい方を発見して、あーここか!と。挨拶したら、「あー、聞いてます」と。

この方が、宮原翔太郎さんであられます(写真左)。

宮原さん(左)と保木本さん

パーリー建築さんとは何者か? 全国各地を渡り歩き、空き家に住み着いて、近くの住民や施主と一緒につくりあげる建築集団。歌いながら、パーティーするように。この界隈ではすごい有名な方々です。これからの建築のあり方を旅しながら模索しているんです。

きょうは宮原さんと、この日に高藤さんの紹介で初めて会ったという、保木本弘生さんがいらっしゃった。音楽をかけて現場作業中。このどデカイ製材所をフェスのライブ会場にするらしい。えー、来てみたい。

せっかくなのでとコーヒーブレイク。外の風に当たりながら製材所で木のにおいをかいで。上の世代はどうバトンをつないでいくか考えてほしいなーとか、なんとなく社会をよくするために生きることとか、次の世代にどういう視線を向けるかとか、暮らし方の選択肢とか、いろんな話をしたなー。ぜひ旭川にもいらしてほしい。

2時間以上も滞在してしまい(すみません)、作業時間は終了。そのまま宮原さんたちが根城にしている喫茶「ミラクル」に案内してもらった。

駐車場をてくてく歩いて喫茶「ミラクル」へー。町民しか入れない温泉もこの辺にあるんだとか。

元美容室とスナックで、自分たちで常に改良を重ねてつくった、めちゃおもしろい空間。つねにフルで営業できるわけじゃないけど、地域の人や子どもが集まるにはもってこいだなー。パッと見たら良い意味でカオスなところがあるけど、それが落ち着きにつながってるんだから摩訶不思議。この2階に住み着いてるらしい。

パーリー建築すごい。生きる力がすごい。財布を保木本さんの車に置いてきたのでパー建Tシャツ買えなかった。。。

みんなと握手を交わし、保木本さんのインプレッサに乗せてもらって、今宵の宿がある方へー。ひとり旅は最高だわー

(山陰の旅はまだまだ続く)

鳥取駅前を歩けば

(つづき)

とりあえず鳥取駅に降りてみたけど、強烈な目的があったわけじゃなかったので、コンコースにある観光案内所で商店街の場所を聞いて、遅い朝ごはんで「砂丘そば」を食べて、ドトールでひたすら充電することに。

美しいほど潔くシンプルな「砂丘そば」

そのあと、北口を出て地下道をくぐり、大丸の隣にあるドーム状の不思議な空間を抜けて、商店街を目指す。

鳥取の中心部は初めて来たけど、びっくりするくらいの広範囲で、アーケードが残っている。一歩脇にそれたら寂しい感じのところが多かったけど、メーンの通りは個人の専門店が健在で、これまたびっくり。

メーン通りから一歩入るとこんな感じ

いま、時の人になっている石破茂さんの事務所もありましたよ。金沢に来られた時、夜行列車のことを軽くお話したのが懐かしいなぁ。

石破事務所。至る所に、そして地元紙にも石破さんの名前と顔が。さすが地元

いちばん衝撃的だったのは、メーン通りはすべて歩いてみたけど(片道15分以上はかかった)、コミュニティ施設はあったのにコンビニが一軒もなかったこと! いまどきすごい。規制してるのか、自然にこうなったんだけなのか分からないけど、嬉しいなぁ。

商店街のある「川端」というエリアが気になって、メーン通りから一本入った「川端銀座」というところを歩いてみた。古い旧商店みたいなのにまじって、イマドキな感じのショップが何軒もまじっていて。この混在してる感じがいいわ。

これはこれで味がある。ステキな角地

この川端銀座以外にもリノベーションされてそうなお店がいくつかあって、地方都市の商店街としてはその割合はけっこう多いと思う。市が力を入れているリノベーションと関係あるのかは分からないけど、シャッターばかり見えるのが今やどこでも普通になったので、心強い。

商店街のもつ「場のちから」ってすごいなとあらためて痛感。でも地元の人に聞くと、例に漏れず鳥取も北のほうの郊外イオンができて、そっちにかなり流れたらしい。それで駅前もかなりキツくなったとか。鉄道での移動に頼れないっていう限界があるのはすごく感じたけど、寂しいは寂しい。

ちなみに、この後出会うことになる、リノベーションスクールの経験者によると、スクールがきっかけでブックカフェ「ホンバコ」というのがオープンしたものの、閉店してしまったんだとか。持続させるためにプレイヤーをどう確保し育て、ソフト面を整備していくかは、ハード面のリノベーションと違った難しさがあるんだろなー

(山陰の旅はまだまだ続く)

米子駅と鳥取駅に、多彩な車両たち

(つづき)

米子駅からはとりあず鳥取駅を目指すことにした。

デッドストック工務店が夏の森、道、市場@蒲郡   に参加した関係でつながらせてもらった、鳥取が誇る凄腕大工さん・高藤宏夫さんの地元なので。リノベーションスクールやってるので。高藤さんに連絡したら、浜村温泉というとこで、フェスのステージをつくっているとのことで、じゃあ鳥取でスマホ充電してから向かおうと。

次に鳥取まで行く優等列車は、「スーパーまつかぜ」。キハ187系に初めて乗ることになって、ドキドキする。たったの2両編成だけど、長蛇の列。ほぼ満席。倉吉⇄倉吉の都市間輸送に活躍してるみたい。けっこうな頻度で走ってるし。

スーパーまつかぜ が米子駅に入線

待ってる間、米子は交通の要衝だからいろんな車両が行き交っていて、目の保養になった。

災害ばかりだ、とあらためて
岡山とを結ぶ「やくも」

「スーパーまつかぜ」はなかなか絶好調で、感覚的には110〜120km/hくらい出してる。ディーゼルエンジンには唸りの緩慢があるので、生き物のようで楽しい。力強く回ると、ちょっと強引な感じに躯体を引っ張る。内外装のデザインは残念だけど、走りはかっこいい。

鳥取は米子から100キロくらい離れているようで、意外に遠いんだとびっくり。この車両には快適設備はほとんどないけど、軽快感ある走りにだいぶ救われてる気がする。

鳥取駅もこれまた楽しい。「スーパーはくと」、普通列車のキハ47、「コナントレイン」と多彩な顔ぶれ。関西出身なのに、鳥取圏はいつでも来れると思って後回しになってた。デザイン的に惹かれるのは、昔から憧れてた「スーパーはくと」くらいだけど。帰りは乗りたいなー

スーパーはくと
キハ47系の普通列車
コナントレインだそう

(山陰の旅はまだまだ続く)

サンライズエクスプレスで山陰へ

最終出社日は夜勤だったので、挨拶した後に拍手で送られ(ちょっと泣きそうに)、自宅でシャワーを浴びて、目の前の天竜川駅から終電で浜松駅へ。きょうはこれから、念願のサンライズエクスプレス!ドキドキ。

駅前の居酒屋で、記者生活10年半を振り返るために山崎12年をロックで引っかけようと思ったものの、チェーンも含めてほとんどが閉店。仕方なく、安っぽい24時間営業の居酒屋でビールと刺身だけ注文して、そそくさとコンビ二でビールと日本酒、つまみを買いこんで、戦いに備える。

25時12分、定刻通り、ベージュに赤のラインをまとった285系が入線してきた。浜松からの乗車はぱっと見、5人ちょっと。貴重な停車駅だけど、まあこんなもんか。

ほろ酔いだけどちゃんとスマホで追いかけた。そして流し撮りは失敗

寝台料金のいらない「のびのび座席」へ。周りのお客さんはすでに寝静まっていて、自分のコンビニ袋のくしゃくしゃ音が気になる。隣の人とのパーテーションになるカーテンがあったような記憶があったけど、どこにもついてなかった。

のびのび座席の12号車

この285系が登場した時、確か中学生だったけど、同級生のつっちゃんと一緒に大阪駅に行って、一般公開のセレモニーに参加したのが懐かしい。「動くシティホテル」みたいなコンセプトで、大手住宅メーカーが手がけたか、監修したかっていうことを聞いた記憶がある。その当時から昔ながらのブルートレインは凋落傾向で、これからは客車じゃなくて電車の、個室重視の洗練されたものが出てきて、そうすれば夜行列車にも未来はある!とテキトーに思った。

今見てもデザイン的には時代遅れな感じはしない。まあビジネスホテルみたいに無味無臭な感じはするけど、快適だし。個室に泊まりたかったけど、この日は「のびのび」一席しか空いておらず。普段から乗車率80%以上とか聞いてるけど、ほんと人気なのねー。いいことだわ。

ただ気になったのは、そのスムーズな加速。機関車に引っ張られる客車とちがって、モーター制御だから、ガタつきがなく、リニアな動きなんです。ほとんどの、変態じゃない人は気にならないだろうけど、「これいつも乗ってる電車と一緒のフィーリングやん!」となるわけですよ。非日常性、ワクワクがない。

あとは、通路にイスがなかった点。むかしの客車寝台は、通路に折り畳み式のイスがあって、寝付けない人や車窓を見たい人が使っていて。缶ビールやワンカップなんか飲みながら。隣のお客さんと故郷の話なんかしながら。いま思えば、列車内の「縁側」みたいなもので、良かったなぁ〜。

出世できなかったのでご当地の「出世城」を

さて、荷物を置いてすぐラウンジコーナーにいき、明日以降のことを調べたり、宿を予約したり、インスタやラインをやったり。やっぱり個室でしっぽり飲むのが好きだけど。3時くらいになると睡魔に勝てず、カーペット席に戻って即沈。

岡山で半分以上の人がおりたようだけど、自分は米子到着の20分前ギリギリまで二度寝。車掌さんのアナウンスで大山を見逃さずにすんだ。浜松駅から米子まで8時間弱。ちょうどいい時間かな。

これは1階
これは2階部分

これまで、現役時代を知っているものはほぼ全ての寝台列車に乗って来たけど、カシオペア(定期列車は死去)とサンライズだけ未経験だったのが気にかかっていた。長年の胸のつかえがとれて、すがすがしい朝になった!

外から見たのびのびシート
米子駅にて。お疲れさん

(山陰への旅はまだまだ続く)

ラストラン 新聞記者

9月7日、中日新聞社の社員として出社する最終日を迎えました。10年半、いろんな経験をさせてもらい、各地の皆さんに育てられ、楽しませてもらいました。

愛知県の瀬戸支局を皮切りに、金沢にある北陸本社報道部、浜松の東海本社でお世話になった。地域に入り、1人の市民として思いをできるだけ共有して、友だちや師を増やしてこれた。一生のお付き合いをさせてもらえるような人が、たくさんできた。地域があるからこそ、人は頑張れるし、こどもが育つし、国が保たれているんだと体で覚えた。こんな貴重な、「おいしい」仕事はないと、今でも本当に思う。

最終日の日中は、挨拶回りや各種の整理を。夜は11時まで夜勤。上司が気を使ってくださったおかげで、何人かの後輩が挨拶に来てくれて、先輩が声かけをしてくださり、電話もいくつかいただいた。「北海道で行き詰まって諦めないといけない、となったらもう一度入社試験を受けるように」という具体的なアドバイスも(笑)

贈り物をいただき、破顔する筆者

でも不思議と、ナイーブになったりしないし、落ち着いてた。それどころか、なんだろう、この、満たされる感じは。1ヶ月くらい前まで、最終日は号泣するだろうと予想してたけど。ドライにおすまし顔をしているわけじゃなく、実感がまだ足りないだけなのかも。

今後の厳しさに思いを馳せ、気を引き締める筆者

記者として10年は修行。一人前になれるかどうかは、それからーー。そんな風に教わってきたし、今はその言葉の意味が分かる。3年続ける、5年続ける、そして10年。それぞれに、思うことのレベルも角度も、量も違う。10年たてばプライベートでも環境が変わって、考え方や優先順位がガラッと変わることがある。自分がまさにそう。

どう生きたいのか、どこで根を張ってどんな暮らしをして、死ぬのか。自分なりに考え続けてきて、家族とも話し合って、今のところ揺らぎはない。だから妙な落ち着きにつながってる気がするし、やりたいことが山盛りでワクワクする。

会社のみなさん、取材でお世話になったすべての皆さん。本当にありがとうございました。学んでことを必ず生かして、場所や形は違っても、なんらかの形で恩返しをして、楽しんで生きているところを見せていきます。もしよければ、今後ともよろしくお願いします。

最後の宿直の未明に、北海道地震

もはや何が言いたいのか分からないけど、ショッキングな地震だったので書き留めないといけないと思った。

6日の朝5時50分ごろ。浜松にある会社の仮眠室で目をこすり、スマホをのぞくと、ただならぬ雰囲気のメッセージを発見。「地震大丈夫ですか!」「何か必要ありましたら、連絡ください」と入っていた。

ひょっとして、南海トラフ巨大地震でも起きて、自分が気付かないままだった・・・? とひやっとする。でもその1,2分後、テレビをつけた瞬間に飲み込めた。これから移り住もうという大地が、大変なことになっている。

1時間弱あとにも、かつて勤務していた地域の市長さんからメールが。「大丈夫ですか 何か必要なことあれば遠慮なくどうぞ言ってください」。

発災2日目の7日にかけても、LINEとかで同様なメッセージを多くいただいた。ありがたや。旭川は震源から離れていて、停電以外の被害はなさそうだった。

職場ではNHKを付けっぱなしにしていて、被害状況が随時入ってくる。高瀬アナと和久田アナが、「停電していてニュースも届きにくい。SNSで知り合いに状況を伝えてほしい。離れているからこそできることがある」みたいな事を、しきりに呼びかけている。状況に即してて、具体的。同業者として、「すごい」と舌を巻いた。たぶん普段から、どういう場合にどんな情報を届けるべきなのか、どうやって伝えるのかを、議論してるんだろな。

何度か同じ映像が流れて刷り込まれてくると、ふと我に返る。昨日から今日は、会社員として最後の宿直勤務。わざわざそのタイミングで、なぜか北海道で、10歳の時に西宮で経験したのと同じ「震度7」の烈震が起こるなんて。あっけにとられた感じになった。

スマホでフェイスブックをのぞくと、旭川の皆さんの投稿が次から次へと。無事の報告、店舗に残っている物資の状況、電気が復旧したATMの場所、自宅の一部開放やお店の電源開放といった情報・・・。ほんとに生きた情報が共有されている。情報がないと不安は増幅する。電気がないからこそ、SNSは強い。

事態がちょっとずつよくなりそうな情報に交じって、影響が長引きそうだなと心配になる投稿も。

士別市にある、トマト(ジュース)で全国的に有名な農家さんは「二次被害」として、収穫期のトマトが出荷できないこと、冷凍庫冷蔵庫も機能しないことを懸念されていた。産業面での混乱と収入への不安は、時間を追うごとに大きくなるのかもしれない。その時は、遠く離れていても応援する選択肢が増えていくはず。

今すぐ動きたい気持ちもあるし、現地に行きたいけど、節電が要請されている中で、中途半端では迷惑になるだけ。8日のビジネスコンテストも延期になったので、とりあえず4泊5日の道内予定をすべてリセットして、キャンセルの手続きに入った。

往路は羽田から新千歳のエア・ドゥ。不可抗力による欠航なのでキャンセル料がかからず、ホームページから試行錯誤して完了。10日に泊まる予定だった星野リゾートの旭川OMO7は直接電話するも、「このエリアではネットワーク障害で・・・」とアナウンスが流れ、何度かけてもつながらない。

電気は弱い。ネットは強い。

今回の特徴は、火力発電所がダメージを受けたことで「ブラックアウト」が起き、停電が北海道全域に及んだこと。道内の電力需要の半分を賄っていた苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所が緊急停止して、急に供給力が落ちたことで発電力(供給)と使用量(需要)のバランスが狂い、周波数が乱れたことが原因らしい。全然知らなかった。1カ所に依存するのって、本当に脆い。

この先いつか、福島の原発事故で「エネルギーと暮らし」「一極集中のリスク」をみんなが考えたのと同じように、道内でも関心が高まっていく気がする。

木質燃料は薪ストーブなんかのおしゃれ感や憧れもあって注目されてるけど、なかなか見えない電気や水は、ちょっと事情が違う。でもいろんなことが可視化されて、けっこう大きなインパクトをもたらす予感がする。

「旭川公園」で予定してる井戸は、もう、何があってもマストだなと、あらためて。宿泊用の小屋(タイニーハウス)は、ほぼオフグリッド(独立電源)にするし。

悶々としながら、だらだらと、いろんな事を考えてしまう。

ともかくも行方不明者の捜索が進んで、多くの人が1日でも早く日常が取り戻せるように。そして被災地に降ろうとしている雨はどうか、手加減してほしい。

「ぼくが課題を解決します!」だなんて

旭川で地区予選がある、北海道庁のビジネスコンテストが9月8日に迫ってきたー

プレゼンに使うパワーポイントのデータ提出の締め切りが3日朝10時。34歳になった1日と2日は幸運にも仕事が休みだったので、けっこうな時間をもらって、資料づくりを進めることができた。大会のテーマは、「地域の課題解決」

パワポそのものより、細かいところを詰めていなかった収支計画の整理が先決。ということで、まずはここから。

15年で借入2500万円を返済すると仮定して、冬の稼働率をかなり厳しく見て、元金と利息を返していけるかどうかチェック。最終的には1年目の稼働率は29%として、朝食やカフェの飲食事業も原価から考えて、光熱水費を厳格に(自分の中では)かつ多めにみて、なんとかいけそうな数字をはじきだした。

これが2日の未明になんとかできて、そこからはパワポの組み立てに専念。

自己紹介→「空き地」の魅力→なんでコミュニティーをつくりたいのか→どんな課題があるのか→どう解決できるのか・・・。とりあえず説明に必要なことは網羅はできた。でも、なんか面白くない。まだ住んでもいないのに、「課題を解決しまっせ!」っていうのも、しっくりしない。

浜松では珍しく24時までやってるスタバで、2日夜、会社の仕事と並行して悶々としていると、旭川公園メンバーでデザイナーの鈴木裕矢さんから、「ロゴデザイン案ができました」とメッセンジャーが。スタバで作業していることを伝えると、「来ます?」「相談しながら仕上げちゃいましょう!」と事務所へのお誘いが。待ってました。すんごい助け船!

22時15分くらいにスタバを出て、流れとか見せ方を相談。写真をたくさん使って文字も大きく、テキパキと見せていくのがいいんじゃないか。論理的に隙なくやるのも手だけど、人の心を動かせるほうが楽しいよね、と。最初に掴みで面白くするか、後にもってくるか・・・いろいろ考えた。

で、やっぱり松本は地元の人じゃないし、どう気が狂えば、新聞社辞めて移住してまでやるのか、そこを印象深く伝えたいなと。自分の素直な思い、なんでやるのかというきっかけを、ちゃんと押しだそうよ、と。それが今後にも繋がる!と、という方向でまとまった。

家に帰ってさっそく。全面作り直し。

プロフィール→どこで、なにをするのか→ちなみに数字はこんな感じ→そもそもなんで北海道?→実は〇〇→自分にはこれができそう→地域の課題もこうやれば楽しい、という流れに。文字はできるだけ少なくして写真やグラフ中心に、フォントは大きく。アニメーションで動きを出して。 説明チックではなく、「変なやつがいるな。でもデタラメだっかり言ってるわけじゃないかも笑」と思ってもらえるような、なんとなく面白い感じに仕上がったかなー

住んでもない、出身者でもない若造が「がんばって地域課題を解決します!」なんておこがましいと思ってたから、めちゃスッキリ。変な肩こりがなくなった気分だわ。やりたい気持が先に来てたから、そこはウソつけぬ。

完成は3日未明。まさにギリギリセーフ! これがプレゼンっぽい感じでまた楽しい。ハイテンションな夜明け。ありがとうございます、裕矢さん!

あろうことか歓送迎会で・・・

ついにやってきた会社の歓送迎会。
9月異動「など」に伴うものとして盛大に催され、会社を辞める身だというのに、主賓の末席を汚すことになった。「温かく送り出してやろう」という温情とお気遣いをいただき、ほんと恐縮しきり。ありがとうございます。

幹部からの挨拶で身に余る言葉をいただいて、背筋が自然と伸びる。

反射的に自分のあいさつの中身もカチコチに固まってしまってオロオロしていると、幹事の後輩(20代)から「堅い!!」と文句が入った。

「そこまで言うなら、じゃあ」ということで、幹部の皆さんが居並ぶ中、砕けた言葉でぺちゃくちゃしゃべらせてもらうことに。

「大変な状況にある業界で、これからみんなで頑張っていこうという時に、こういう形になることに、申し訳ないというか、複雑な気持ちでいます。だからこそ、自分の思いを強く持って、いったい松本はなにをするのか、皆さんにお伝えしないと失礼にあたる。なのでプレゼンさせてください!!」

出席者撮影

と、あろうことか皆さんの前で、この日のために用意したパワーポイントの資料3枚を配った。その瞬間、場がややドッカーンとなって、和ませ大成功。

公園をつくってそこにゲストハウスをつくるという、なんだかよく分からない計画を人に話すのっていつも悩ましい。ましてやこの場みたいに、30人くらいの人に同時に、なんてことは経験がない。

ただコンセプトは説明しないわけにはいかないので、「町内会にチェックインするように。生まれ変わった公園で、普段着の暮らしをシェアする宿」と表紙に書いておいた。

これが幹部2人から「これはいただけない」「ダメな原稿だ!」と酷評され、また会場は笑いに包まれることになった。このうち1人からは二次会で、「行きたいな、とはこれ読んでも思えない。旭川まで行く人って、非日常を求めてるんじゃ。外国人ならともかく」とも言われた。

なるほど確かに。旅先の地域の日常を知ることって、すごい楽しいし感動につながることだと信じて疑わなかったけど、字面で伝わらなきゃ意味がない。なんか上手いこと言おうとして、表現が軽くなってるかなと思う。

3次会が終わって家に帰って振り返った。うん、確かによく分からんコピーだし、なんの前提となる情報もない人からすれば、「行きたい」という気分にはならない。それどころか、「町内会」とか「公園」ってまさに普段の日常にあるので、わざわざ北海道まで行く意味が見当たらないよね、と。

ちょっと考えてみた。「自分がこういうものをつくりたい」「これが素晴らしいと自分は思っている」「この良さは来たらみんな分かる」・・・。そんなレベルでしか人に伝える言葉を考えていなかったなー。モノ書きの基本のはずなんだろけど。

読んだ人はどう思うのか、北海道になんで来るのか、北海道旅になにを求めているのか、どこまでこのエリアの事を知っているのか。そういった、情報の受け手のことをまったく考えていなかったわ。「分かってくれるよね、皆さんなら」みたいな驕りもあったね、間違いなく。

思わぬ収穫。無理やりにでも、場違いでも?機会をつくって声にしたからこそ、反応があって、改良ができる。良いことを教わった、8月最後の夜。

退職願と振り返る10年半

8月30日、会社についに辞職願を提出した。

最終出社日と退職日はすでに各所に伝えてあったけど、仮住まいするアパートが決まってなくて、なかなか提出に時間がかかってしまってた。

アパートはゲストハウス予定地の近くにいくつもあるけど、調べてみたら、短期の契約がNGのところばっか。やむなく短期契約できる物件の多い、大東建託さんのに絞って探し、なんとか管理費込みで6万円台のところを探し当てたので、契約はしてないけどエイヤ!と提出することに。

自席ではなくて別室に所定の紙と封筒を持ち込んで、噛みしめるようにボールぺンを走らせる。深呼吸しながら、慎重にやったつもりなのに、「一身上の都合」と書く時に「身」を字を書き損じて、「段」みたいになったけど、修正ペンで書くわけにもいかないし、無理やりデフォルメさせてしまったのが悔やまれる。。。

ちなみに退職願には、失業手当に欠かせない「離職票」がいるかどうかを記入する欄があって、迷わず「必要」を選択。

提出してからしばらく、これまで10年半の、いろんなことが頭をよぎった。愛知県の瀬戸支局、石川県の北陸本社と、いまの浜松市の東海本社。まちの話題、市役所、町役場、県庁、警察、裁判所、JR、文化施設とまあいろんな所に取材して勉強させてもらったなぁ。

そして間違いなく、いま大切にしてる価値観はこの仕事を通じて得たもの。長久手市(当時は町)の福祉拠点「ゴジカラ村」や金沢のいろんな人が暮らす「シェア金沢」で、障害の有無や世代を超えて人が交じり合う大切さを学んだ。北陸新幹線開業の関連でインタビューした、「ななつ星」とかJR九州の特急をデザインした水戸岡鋭治さんや、金沢の町づくりから、一流の感性やデザインで公共空間を豊かにしていくことの意味を知った。どの地域にも、地域のために輝いている人がいて、その背中を見ては「自分もプレイヤーになりたい」と思うようにもなった。

会社と地域とご縁に感謝。お世話になった人たちの存在を意識して、恥じない生き方を見せていくしかない。