住むなら駅の近くがいい

最近、浜松駅の近くの繁華街で飲んで、終電近くに帰ることが多くなってきた。自宅は浜松駅から東に一駅の天竜川駅前のマンションなので、電車で帰れると心地いい。

最終の電車を逃したらタクシーになり、2000円以上が普通にとんでいく。JRなら190円なのに。今のマンションの決め手となった一つは駅の近さ。ドアを開けて3分後の電車に乗れるし、家の窓から貨物列車が見れるし、妻子がベランダから手を振ってくれる恥ずかしさも楽しめる。

前任地の金沢でも、住んでいたアパートは金沢駅から2駅の野々市駅前。窓から北陸新幹線や、トワイライトエクスプレス、日本海といった今はなき寝台列車、サンバーダードとかの特急列車が見れて楽しかった。北陸本線は「特急街道」だったから、いろんな顔ぶれがあって最高でした。

近くに鉄道があるというのは立地を決める上でめちゃくちゃ重視していて、それは鉄道が好きなのもあるけど、レールがつながっている安心感というのが大きい。

雪とか事故とかでクルマで行きづらければ電車でいけばいいし、なにより飲みに行ける。タクシーに乗らなくていい。渋滞を心配しなくていいので待ち合わせがしやすい。

鉄道があるかどうかは、自分にとって死活問題だし、こどもにとってもいいことだらけ。クルマだけで移動していたら、完全なプライベート空間になって、そりゃ楽だけど、なんの刺激も発見もないんです。でも電車だと自由に体が動いて景色を見たがるし、騒いだらダメだと覚えるし、おばあちゃんとかおばちゃんが微笑ましく見守ってくれる。1駅乗るだけでも、いろんな人と話すことはざら。偏見だけど、その辺りの環境は山手線なんかよりいい。人が多ければいいってもんじゃないし。

北海道で土地を探すとき、旭川のお隣にある東川町というところも候補だった。旭川空港から10分とか15分とかで、北海道らしい田園風景もあるし、大雪山も拝める。ハイセンスな移住者がいまどんどん押し寄せてて、カフェや宿泊施設、雑貨屋、モンベルの入る道の駅とかなんでもござれ。実は通過したことしかないけど、めちゃ洒落てる。もう入り込む余地がないくらいすごい。しかも北海道で唯一、上水道がなくて大雪山の伏流水で全戸まかなってる!

東川町は三つの「道」がないと言われていて、ひとつがこの水道。次が国道。これはまあいいや。一番困るのは「鉄道」です。旭川の繁華街を知ろうにも、これじゃバスをうまく使わないと気軽に飲みにいけないし。農村や山だけじゃなくて、まちも気軽に楽しみたいよね、ってのが今の気分。

ゲストハウスは快速も停まる(といっても普通列車ふくめて10往復くらいしかないけど💦)永山駅から歩いて15分くらい。もう一つの最寄駅は、永山駅より一つ稚内側の北永山駅。田んぼの中に立っているような駅で、ホームの待合室からは大雪山が望めるし、冬は目の前でハクチョウがエサをついばんでる、幸せなところ。

ここなら幸せに暮らせそう

 

 

 

 

 

 

「泊まれる◯◯」

きょう6月 5日の静岡新聞夕刊一面と、5月30日の朝日新聞に、静岡市葵区七間町・人宿町のゲストハウス「泊まれる純喫茶   ヒトヤ堂」が紹介されていた。

武蔵野美大をでた女性2人が、セルフリノベーションで喫茶に新たに息を吹き込んで仕上げたらしい。人宿町は、東海道の旅籠として栄えたんだそうで、ネーミングにも込めたみたい。そうか、ヒトヤド→ヒトヤ堂。おもしろいなー

頭に残ったのは「泊まれる◯◯」というワード。全国で似たような言い回しが多くて、これからは使うのが難しそう。

自分も今年1月くらいの時点で、ゲストハウスの形を考えていた時、妻の茜がパンが好きなので安易に「泊まれるパン屋」にしようと思って、競合がなさそうな地域を探してた。まぁその構想はすぐに潰えるのだけれども。。。

沼津には、「少年自然の家」をリノベーションした、泊まれる公園「INN THE PARK」もある。ここはグランピング的な雰囲気も楽しめるし、ものすごい人気になってる。最新号のmonoマガジンにも載ってた。

「泊まれる◯◯」は、◯◯の部分がオリジナリティある資源や価値に当たると思うけど、それと宿泊を掛けわせて「新しいよ!」ってニュアンスを出すには手っ取り早い。

旭川のゲストハウス構想でも、地域の子どもたちが遊びにくるハイクオリティな「公園」をつくろうとしているので、言っていれば「泊まれる公園」には違いない。表現やコピーはまだまだ考えを深めないといけないな〜。

静岡新聞(新聞記者はシズシンと呼ぶ)の記事には、「地元の人と宿泊者が自然に混じり合えるのがゲストハウスの魅力」とある。完全に同意。濃〜く混じり合える「公園」をつくってこー。

とりあえずヒトヤ堂、ふらりと行ってみよう。静岡だけみても、行きたいところが多すぎて困リ果てる

なかなか土地が決まらない

宗谷本線そばの、黄色い線で囲った角地をあらたに打診することになった

5月28日の月曜日に旭川に行って、信金さんや、許認可関係いろいろある市役所で協議してきたけど、その時も「土地が固まってから具体的に動きます」という域を出ることはできなくて、そのまま今に至る。

うーん、土地がなかなか決まらない。

正確にいうと、予定地というか希望する地面があるけど、契約までいってない。

小学校や旭川大学近くの住宅地で、写真のようにステキな土地があって、もともと売りに出されていなかった角地の交渉を5月2日に不動産屋さんにお願いした。所有者の方が高齢で、親族の方が5月13日に「売る方向で」と前向きに対応してくださったが、その後は音沙汰なく。土地をめぐっては同じ家族でもいろんなスタンスがあったり、外から分からない事情もあるので、急かすものじゃない。このことがきっかけで、厄介な事になったら、やり切れない。

焦ってはいけない。急がない、と言い聞かせてきた。売りに出ていたわけじゃないので、時間がかかるのは当たり前だし。不動産屋さんは「進みが遅くてごめんなさいね」と言ってくれて、恐縮しきり。

でも一方で、他の予定地も視野に入れないといけない気がしてきた。

よく考えたら(考えるまでもないけど)最初お願いしていた角地と反対側にある、稚内に続く線路に面した角地があるやん。しかも、こっちの方がずっと開放感あるし、列車からも見えるし!!

ということで昨日4日、不動産屋さんに、こちらのリサーチと調整もお願いした。

土地が決まってやっと、

①家族全員での地域へのご挨拶

②建築家、デザイナー、公民連携スペシャリストでつくるチームや、コンテナハウスメーカーによる現地調査

③設計図や図面の作成、見積もり

④ロゴなどグラフィックをふくめた計画公表

ーとなるけれど。

6月の渡道予定はまだない。そう遠くないうちに土地が動いて、予定を入れられればいいなー。土地がすんなりいかないもの、ベストに向かうための必要なプロセス。この時にしかできない勉強をして力を蓄えよう。

熱海の奇跡を見に行かねば

「熱海」って聞くと、衰退の象徴、っていうイメージがあった。旅行の形が変わったことに対応できなかった残念なところ、という風に。なのになのに、浜松に転勤してからというもの、熱海がにぎわってる、若い人が来てるという明るいニュースばかり見るようになったことになった。

あれ、いつの間に?

これまで興味をもってストーリーをふかく調べることもしなかったけど、今は違う。めっちゃ知りたいんです熱海。

そう、有名なゲストハウス「MARUYA」があり、エリアリノベーション(※)がうまくいっている街だから!

ゲストハウスで起業しようというのに、わが静岡の事例を知らずして、先には進めないもんね。

そんな時に、これまた最高のタイミングというか、自分のためにあるような投稿に接した。リクルート出身で瀬戸市役所時代にお世話になったコンサルタントの柴田朋子さんのFacebookで、「熱海の奇跡」(市来広一郎著、東洋経済新報社)が紹介されてた。なのでさっそく読んでみた。

主なメモ内容と、自分の計画に照らして心に刺さったポイントは以下の通りであります。

 

★  「大きなビジョンと小さな一歩」  志高くとも、まずは持続可能な範囲で。お金に向き合う訓練をせねば  

★ 自分たちの暮らしは自分たちでつくる、自分たちの街も自分たちでつくる→できる範囲でつくっていくために、新聞社を辞めて北の大地に逃避行するんだから

住民みずからが生活を楽しめるようになることで内需が拡大し、外から遊びに来る人が増えて外貨を獲得するローカルな暮らしを体験してもらうゲストハウスにするので、地域の人が楽しく寄れる場をつくりたい。時間をかけて、ていねいに

★街としてのペルソナ(最重視するターゲット層)=クリエイティブな30代に選ばれる街→こちらのペルソナは、関東在住の20〜30代女性。車を持たず、新しいライフスタイル、丁寧に暮らしを模索すると。東日本大震災で価値観が揺らいだ。雑誌「&Premium」や「nice things」を愛読している。

地方の文化やライフスタイルで稼ぐことが新たな地方の観光だ(木下斉さん)→もう間違いない。あらためて意識してこ

★お客さんを集める重要な要素は、街そのものの魅力、街を知るという体験→ほんとこれ。くどいくらい噛みしめよ

★大島芳彦さん「あなたでなければ、ここでなければ、いまでなければ、という事業を生み出そう」→はい。そうします

このゲストハウスに宿泊すると、自然に街に出かけ、街との接点ができるようにしています→同じこと考えてます

「やってから謝りに行く」戦術。事前にすべての方の合意形成をしてから始めていては、いつまで経っても何も変えられない。実際にやってみないと意義はなかなか理解してもらえない。継続すると変化は起き始める→ここ、すごく気になってた。今後重点的に勉強したいところ。どうやれば思いや考えが伝わるか、どこまでどんな形で合意を形成するか

自ら仕事や暮らしをつくっていく人=クリエイティブな人。カフェもゲストハウスもクリエイティブな30代に選ばれる街をつくるビジョンを実現する手段→大きなビジョンと、それにつながる各事業の位置付け、ちゃんと全体図を整理せねば

女性の意見や感じ方をよく知って、意見を取り入れていくことは、新しい仕事や暮らしをつくっていくうえで不可欠。女性には、新しいものに素早く反応する傾向がある。生活を楽しむことに関しては、女性のほうがどん欲。→200%同意。

これからは女性や若者、他地域から来た人や外国人など年代、性別、国籍などを問わず、多様な人たちが関わり、ゆるやかにつながり共につくりあげてこと、磨かれていく→ゆるやかに小さくつなり、気づいたら大きくなってるってのが、今

起業家と地元の人々は経験や考え方に差異があり、すんなりとコミュニケーションがとれないことも多々。でもその間に立って翻訳したり調整したりする役割があれば、信頼関係を築くことがもっと容易になる→やはり皆さん同じ苦労を経験するんだな・・・。自治会長さん以外に、いまいち思いつかない。

宿を街に点在させてネットワークにつなぎ、多様な滞在の仕方を生み出そう。街全体が宿のような感覚で泊まれる街をつくろう→実は空き地を使った〝公園〟づくりだけではなくて、発展させる将来展望もあり。だから、移動可能なコンテナハウスやタイニーハウスが欠かせぬ

★自分や周りの誰かを犠牲にして取り組むことは、結局のところ、良い結果をもたらさない。街を変えることには時間がかかります。だからこそ、楽しく続けていくことが大事です。そのためには、稼ぐことに向き合うことが大事→身に染みる。街を変えることとか、課題解決が先に来たわけじゃないけど、自分たち家族の暮らしも見せていくというか、楽しく暮らすことがまず前提にないと、誰も楽しめないだろうと思ってる

 

“熱海の奇跡を見に行かねば” の続きを読む

新幹線で飲みに来た同期と180分の濃い時間

日曜日。会社の同期が、名古屋から浜松まで来てくれた。

会社をやめること、旭川でゲストハウスをすることをメッセンジャーで伝えたところ、その日のうちに、すぐさま「近いうちに飲もう」となった。カミングアウトしたのは5月27日のことだった。一週間もたってない。

こういう仲間がいるのは本当に幸せだし、このスピード感はめちゃくちゃ心地いい。

近況報告をしたあと、同期から「ゲストハウスをやるって本当?」と聞かれた。なんで思い至ったか、どんな絵を描いているのか、今の会社への問題意識・・・。まくし立てるようにしゃべってしまい、3時間弱が過ぎてしまった。

これから世の中はどうなっていくのか、売れに売れている本じゃないけど「僕たちはどう生きるのか」・・・。口はぼったい感じがして普段、同僚とあんまり話したことはなかったけど、本当はもっともっとこういう話をしたい。

社会人になって10年超。たまにはインテリぶって、これからの社会いついてざっくばらんに言い合いたい。職場の愚痴や下世話な話ばかりしていても、前に進む気がしない。

ふだん昼ごはんにほぼ一切お金を使わず、いろんな節約をしてきた。自分は極端にふれやすいので、ここ一年くらいは飲み会をドラスティックに減らしてきた。それが正しいなのかどうかは分からないけど、時間もお金もかなり捻出できた。独身の時は毎日飲みに行ってたけど、今やすっかり「飲みに行かないやつ」の烙印を押されてるはず。

でも今日みたいにありがたい声かけをしてくれると、飲んでくれる人がいるって幸せだなとしみじみ。同期と会う3時間のために、名古屋から浜松までの切符(往復で9000円近く)を買って。同期には奥さんやお子さんもいて、家族と過ごす大事な時間もあっただろうに。自分もこういう所までケチるつもりはないけど、彼のようにありたい。

「橋の下」で感じる人間のエネルギー

豊田市で毎年やっている「橋の下世界音楽祭」という、とんでもないイベントに行ってきた。

なにがとんでもないのか始めに言っておくと、集まったエネルギー、生命力、アツさ。半端じゃない。お世辞にもキレイ目じゃないし、こじゃれた感じでもないし、背伸びがないけれど、根っこにある哲学はオシャレ極まりない。

5月に蒲郡であった「森、道、市場」が海岸にたたずむコンクリート打ちっぱなしの建物とすれば、こっちは河川敷に並ぶ、人間くさいほったて小屋。誤解なきよう付け加えると、どちらも人とのつながりを感じ、楽しいしビリビリくるけど、向いてる方が違う。「橋の下」はよりフラットな関係性があり、人間としてのネイティブ感が会場に漂ってる。漢字一文字で表せ、言われたら「原」「生」って書くと思う。

会場は、名古屋グランパス(試合見たことないけど)でおなじみの豊田スタジアムの横の、橋の下。

名鉄の豊田市駅方面からスタジアムを目印に歩くと、〝選手層〟の厚さに目を奪われる。パンクなおじさんや宮古島の海のような色のモヒカンお兄さん、ペコちゃんみたいな服を着たオネエサン、原宿にいそうなOL(死語)風の女性まで。この界隈では日本中の入れ墨メンズが終結したに違いないし、みんなの分を集めれば子ブタのタイニーハウスくらいは作れるくらい、ひげを蓄えた人が多い。リアルな感じがする。

入り口らしい入り口はなくて、入場料も取られず。投げ銭方式でお金をだし、演者側と参加者の垣根を低くしているのだそう。これはなんか嬉しい。

いかにも下町にありそうな、くたびれながら頑張ってる風情の屋台が並ぶ。どっからか持ってきたのかと思ったけど、ここで一から短期間で仕上げただろう雰囲気が木から漂っていた。人間のにおいがプンプンして、たまらない。一つのまちになっていて、土ぼこりさえ懐かしい。雑多な人がいて、アジアンな雰囲気もまじっていて、この活気が心地よい。

飲食の屋台にはたいてい二階の座敷があって、ドジョウやたこ焼き、アユの塩焼き、かき氷といろいろ売ってる。歩き始めて15秒ほどで、車で来たことをMax後悔した。妻の茜は当然のように、「帰り運転するから」と即座に言ってきた。

2017年版のHPのイベント趣旨概要には、「橋の下では役職も何も関係なしに、裸の人間と人間であるだけなわけです」「河川敷から竹を800本程刈りだし、街から出る建築廃材を集め、そこに集まったゴミで何ができるのか、設計図無しのジャムセッションのように大工や職人達が3日間の幻の橋の下町を創っていきます」とある。まさにこの通り、カオスな空間が広がっていた。2013年からは、オフグリッド(送電網から独立した)の太陽光発電がステージとかの電力をまかなうようになったらしい。

まわりのお客さんはやっぱり個性的で、自分は音楽に明るくない上、みんなで大きな声を一斉に出したり、ホーム上の駅員さんの安全確認よろしく一斉に右手を降ったりするのが苦手なので、最初は圧倒されびびっていた。

でも、そんな自分でも30分いれば取り込まれる包容力と説得力が、この橋の下にはあった。

自分にとって一番大きかったのは、子どものエリア(ひょっとしたら農エリア)。なかでも、ニワトリの解体ワークショップだった。命をいただく、もっとも重要な瞬間には立ち会えなかったけど、毛をむしられたニワトリの体が、細かくなっていく過程に釘付けになった。

抱っこされて見ていた4歳の陽己はなかなか驚いた様子で言葉少なだったけど、たくさんの小学生くらいの子どもが、まな板と講師を取り込んで、食い入るように楽しんでいた。

砂肝はなんのためにあって、骨と内臓はどうくっついているのか。よく聞く部位の肉や、内臓を一つ一つはがして、お兄さんが説明していく。

若鳥は3ヶ月で肉になる。ちゃんとした環境でお肉にするには本来、8000円くらいかかるらしい。「牛も鳥も値段の差なんてない。鶏肉は、早く育つのでエサでコントロールしやすいから安くできるだけ。皆さんが安いと思ってるだけ」と熱弁をふるってくれた。なんか、人間の教育論みたい。

生きたままメンチにされることもあり、それはラーメン屋の鶏がらスープになってるんだとか。

解体された体内を覗き込めば、大小すごい数の黄身があり、衝撃的だった。ある程度大きくなると、よく見る殻が出来上がる前の状態になる。体内にあったその卵を触ってみると、ちょっと固めのスライムのようにブヨブヨで、表面は障子和紙みたいな繊細さだった。絶たれた命に存在していた、おびただしい命の再生産を垣間見れた。

講師の男性は「食べものがどうやってつくられているか。一週間たてば忘れてる。音楽はなくても絶対死なないけど、人は(イベントに)来る。食べものがないと絶対に死ぬのに、『食べもののことを考えろ』って言っても人は来ない。でも、当たり前に若鳥を買うとき、きょう見たことを思い出してほしい。忘れても、ふと思い出すことはできる」

そのあと、切られた足や頭、ササミやたまごをそっとなでてみた。このワークショップだけでも、「橋の下」が目指すものの一端が分かったような気がした。

子どもエリアを奥へ進むと、「デッドストック工務店」の松本憲さんが制作に加わったゲストハウスや、竹を組んだハンモック、ブランコが見えた。公園づくりのヒントになった。

会場をあとにするころには、阿波踊りみたいな音楽が大音量で演奏されていて、自分も手を上にひらひらと動かして、子どもたちと踊りながら歩いた。2時間半前に来た時のアウェー感は、知らん間になくなっていた。

クタクタになって浜松に戻り、晩ご飯を食べるタイミングを失って、近くの「はま寿司」に入った。「食べものがどうやってできているか」、全然わからないものをさっそくいただくことになった。まあ、そうなもんか。さっそくワークショップの講師さんの言葉を思い出すことになった。

ただ、ぐるぐる回るレーンを眺めていると、魚の切り身が泳いでるんだと信じている子どもがいるーーっていう話も、あながちないわけじぇないな、と思えてきた。

 

 

 

 

 

「こだま」のススメ

東京出張からの帰り、八重洲地下街の北海道アンテナショップ「北海道フーディスト」に寄った。有楽町の交通会館にあるアンテナショップより、買い物を楽しむ場という雰囲気は弱いけど、新幹線に乗る前に駆け込むに便利で、できるだけ足を運ぶ。

ここに来れば、道内のどんな地域でなにを押し出しているのか、地味だけどおもしろいものがないか、何が人気なのか、いろんな発見がある。この日は鮭とばスライスと、ハスカップのケーキ、うまい棒みたいな「なまら棒」、焼き下足を買った。いつも通り、できるだけ札幌にはないようなマイナーなものを選んだ。

今日はこだま号にお世話になる。車内では、自分の後ろの席にカップ酒なんて飲まないようなすごく清楚でナチュラルメイクの女性がいて、鮭とばも焼きゲソも、食べるかどうか悩みまくった。新幹線車内での551は許せるかどうか、激しい議論になったことがあったけど、乾物はどこまで嫌がられないのかと悶々としていた。

そうこうしているうちにこだま号は走り出し、となりのスーツ姿の男性は、崎陽軒のシュウマイをむさぼり始めた。ほのかな香りがただよう。明らかに、同調を誘う香りで、カラシの袋が「みんなで食べれば怖くない」とメッセージをこちらに伝えている。

たまらず、右手でプレミアムモルツの缶を開け、左手で鮭とばスライスを手に取った。イカよりもまだ臭いがましかな、と合理的に判断。鮭とばは、一口食べたらチャックを閉めよう徹底して、背中を丸めるようにして食べた。止まらない。ペースアップする。品川駅に着く頃には、ビールも鮭とばもお腹の中に消えた。

仕事ができるくらいに程よく気持ちよくなると、まわりをキョロキョロしてしまう癖がある。ここが大事なのだけれど、心なしか優しい気分になれることが多い。

この日は右斜め前のほうに、子ども2人を連れたお母さんが乗っていた。下の子は2歳くらいの女の子。駄々をこねられてお母さんが通路に立って抱っこしはじめた。女の子は荷物棚にあったカーキ色のボストンバッグを見つけて、「パッパー」といきなり笑顔で指差した。すると、すかさずお兄ちゃんが「おっきいものはなんでもパパって言わないの!」とたしなめる。けっこうな怒気を込めて。文字面だけだけみたらムチャな八つ当たりのようだけど、完全にうちと一緒で、吹き出しそうになった。

わが家の4歳の陽己(はるき)は、妹だからよけいになのか、2歳の七海(ななみ)に向かって「ごはんちゅうでしょ」「歩きながら食べないの!」、と口をギュっと結んで叱りつける。時にすごい剣幕で、指導したがる。数分後に、自分の発言がブーメランになって返ってくる、という点においてはまったく学習能力がない。

「どこも大変だなあ」と気楽にほっこりしていたけど、今まさに大変な思いをしている件のお母さんを遠巻きに見ていて、申し訳ない気持ちになってきた。自分だけビールとつまみで気持ちよくなってて、ごめんなさい。

自分もあるなあ、汗だくで赤ちゃんを抱っこしてる時に、気持ち良さそうにしている夕方のおじさんを恨めしくなったこと。

くだんの親子3人連れは、熱海駅で下りた。下の女の子はベビーカーに乗っている。3人は赤ら顔のスーツ姿のおじさんたちに次々に抜かされ、徐々にスピードを上げた「こだま」にも置いてかれてしまった。心の中で「がんばって!」と応援した。

「こだま」は、いろんな層のお客さんが混じり合う。乗る区間や装いもさまざま。途中の停車駅が多いぶん、たくさんの人の出入りに目を凝らす楽しみがある。「のぞみ」がつまらないと感じるのは、始まりと終わりしか目に入りにくいからでもある。

変わり続けるまち。更新できてない自分。

久しぶりに東京に行ったので、空き時間に新宿で本でも探そうかと、新南口から高島屋タイムズスクエアを目指した。

はじめて生で見た「バスタ新宿」、なんだかよくわからない新しい複合施設・・・。数年前に来た時と景色がかわっていて、巨大なスーツケースを引く外国人の多さにびっくり。駅員さんも尋ねられまくりで、大変だ。

高島屋の横を代々木方面に歩くと、なんだか免税カウンターばかり目に入る。近くの工事現場は忙しそう。これ以上、またなにか造るんですか。落ち着かない。

紀伊國屋書店があったところにやっとこさ着いた。でも紀伊國屋のロゴは見当たらず、あれま、「ニトリ」の文字がドーンと飛び込んできた。

ニトリは北海道がうんだ名企業だから言いにくいけど、わが家でもテーブルやイス、ソファーといろいろそろえましたよ、安いから。お値段以上、とCMで言うので。でも何年もたたないうちに、テーブルの足はガタつき、イスとソファーのクッションがやられ、マシュマロのように沈んでいった。今も沈み続けてます。そのニトリが、なんかオシャレな感じの装いで入居していて、やっぱり免税カウンターをアピールしている。紀伊國屋があった時は和書も雑誌も専門書も洋書もあって、貴重な気持ちのいい空間だったけど、いまここではどんな家具文化を発信しているんだろうか・・・。

探し回ったけど、やっぱり以前のような複数フロアにまたがる紀伊國屋書店はなくなっていた。洋書専門、日本語参考書のワンフロアだけ残っていた。普通に考えて、ほとんどは外国人のお客さんだろうな

オリンピックが近いこととか、訪日外国人がどんどん増えてることがあるんだろうけど、明らかに新南口は数年前と違うかたちになってた。

東京は変わり続けている、すごいなあと思うと同時に、少し恥ずかしくなった。この日読んだ中日新聞の地域面で、ウェブマーケティング会社の女性の言葉に接していたから。いわく、「時代に合わせて自分の考えを更新したり変化に対応することが大切」。たぶん、高島屋の本館を含めて、この界隈で求める客層なんかも数年前とは全然違ってるんだろう。ものすごく変化しているのに、昔と同じように紀伊國屋はそこにあると思い込んでいた。新宿のまちの情報を更新できていなかったし、これほど変化してると思いもよらなかった。ちょっとオーバーだけど、軽くショックだった。

北海道でも、新幹線の札幌延伸とか、オリンピック(選ばれたら、だけど)開催、外国人のニセコからの流出とかで、どんどん変わっていくはず。旭川だって、空港が拡充されてくるから、つねに変わっていく。まちの更新についていけるように、自分も更新していかないと、とてもついていけない。ご飯も食べられない。

それにしても、東京は本当に疲れる。学生時代に4年間もいたことが、まったく信じられない。

初「ロマンス」

生まれてはじめて、小田急のロマンスカーに乗った。

学生時代に東京(横浜)に4年間いたのに、箱根方面にいくときはいつも、運転の練習という名目でレンタカーだった。いつでも乗れるだろうと思っていたら、一度も乗らないまま就職してしまった。

小田原駅から乗り込んだのは2005年登場の真っ白な「VSE」こと50000系。

お披露目された当時、「なんじゃこりゃ」とドン引きしたのを覚えている。

新興宗教っぽい、出っ歯まエイリアンっぽい、鉄仮面みたい。そんな違和感があった。台車や床下部分がカウルされて、ホバークラフトの上に白亜の城が無理やり乗っかったような出で立ちで、あきらかに浮くだろうと思った。今でも岡部憲明さんのデザインはあんまり好きじゃない。

でも小田原駅でホームに滑り込む、上の写真のような角度から実物を見たら、あれ、かっこいいじゃないですか。

なにより、その存在感は圧倒的だった。同じ私鉄の有料特急でも、西武や京成、近鉄や南海なんかとはまるっきり違う。同じく展望車が自慢の名鉄のそれと比べても、別次元に映った。

車内からも観察してみる。展望車両の大きすぎる窓は、さながら超巨大なプロジェクターだった。窓枠(ピラー)のない開放感はすごい。外の景色という映像をあふれんばかりに各席に届け、トンネルに入ればプラネタリウムのようなワクワク感を演出してくれる。

登場からゆうに10年を超えているのに、まだまだ車内外から視線を集めていた。JR西日本の500系新幹線みたいな感じに。おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんと一緒に乗り込んだ3歳くらいの男の子は「たまらん」という顔を浮かべていた。

シートはお世辞にも座り心地が良いわけでもなく、特段快適な設備があるわけでもない。でも、「ロマンスカーに乗っている」、という特別感は確かにあった。

箱根といえば温泉、湖、山とすぐイメージがわく。映像と結びつく。

ロマンスカーは、誰もが共有している箱根のブランド力に直結するんだろうし、「ロマンスカーに乗る」という体験そのものが、手に届く非日常の観光資源になっている気がする。1957年から脈々と走り続けてきたロマンスカーの強さなんだろう。

一平と三平の、ちょっと味なラーメンの話

ゴールデンウィークに北海道にいったとき、毎日ラーメンを食べることを自分に課した。

味の一平の特製(確か)みそラーメン

旭川、札幌、函館。それぞれ醤油、味噌、塩が有名だけど、なんでそうなったかはいろんな歴史があるし、文化としてまちに根づいている。だからそれを知っておこうと。

というのはうそで、旅行中は大所帯(7人)だったのもあって、嫌いな人がいなくて簡単にお店を選べて、食費もおさえられるから。

新潟から乗った行きのフェリーでは海老味噌ラーメンと塩ラーメン、旭川で飲んだ後には旭川ラーメン(しょうゆだと思うけど酔いすぎて覚えてない)、帰りに苫小牧東港に行く途中には千歳市で味噌ラーメンをいただいた。

いちばんよかったのは、千歳市の「味の三平」。

大学生のころ、高校時代の同級生を連れて卒業旅行を第2弾をやった時、貸し切りでお世話になったバスガイドさんがいま千歳市に住んでいて、その方に教えてもらった。いつも並んでいて、仕事のない日にしかいけないくらいの人気だそうな。ガイドブックとかに載っているのかは知らないけど、地元の人に愛されているのは間違いない雰囲気がプンプンしていた。

スタッフは全員が女性。6~7人くらいはいたはず。

けっこう熱いスープはほどよく濃厚で、ふんだんに盛られた、香ばしい野菜とバツグンに相性がいい。しかも変にくどくない。油がいいんだろうなー。縮れ麺は適度な太さでコシがあり、一口一口、噛みしめるように喉を通すことができる。コシはあっても麺がスープに負けていない。なかなか冷めないのもあるけど、時間をかけて食べたい気持ちにさせてくれる。今まで食べた味噌ラーメンで最高の好みだった。

静岡に帰ってから、毎日新聞の「麺食い 列島味便り」という記事を読んで、札幌味噌ラーメンが紹介されていた。「あっ、ここ行った行った!」と喜んだのもの束の間、よく見たら味噌ラーメンの元祖として書かれていてのは「味の三平」だった。

紛らわしい。。。姉妹店かとおもいきや、そうでもなさそうだし。

「一平」はホームページをさっと探しても見つからず、ストーリーとか女性だけでオペレーションする理由とかは謎のまま。

一方の「三平」はといえば、毎日新聞によると、旧満州で満鉄の乗務員をしていた大宮守人さんが創業。2代目のご長男によると「おなかがいっぱいになって栄養が取れて元気になるラーメンを」という思いがあった。戦地では東北や北陸の出身者が、保存食として焼き味噌を持ち込んでいたらしく、守人さんは「味噌を食べると健康になる」とスープに使うことを思いついたんだって。有名な西山製麺さんと一緒に、濃厚なスープにあう麺を一から開発して、讃岐うどんの本場も訪ねて研究したんだとか。

終戦後ならではのストーリーが泣かせるし、コンセプトが明快。

三平の店内はカウンター13席しかなく、目が届く範囲の対面にこだわっているそう。2代目の〆のコメントが秀一。「客との交流を通じて少しずつ変化している。今のみそラーメンを守るのではなく、時代に合ったものにしていかなければ」

かっこいい!これだけで即食べたくなる。

「一平」はどんなストーリーがあるんだろう。美味しくいただきながら、時間をかけて掘り起こしていうのも、また楽しからずや。旭川にもそんな店が待っているきがする。