旭川にゲストハウスをつくる3つの理由② 最初の挫折

北海道で人生の大逆転を狙おうと思ったはいいものの、悩んだのが場所選び。180近い市町村があって、良さげな自治体をしらみつぶしに調べていった。

条件はJRの駅があること。競合が多くないこと。空港から3時間以上かからないこと。通える学校があること。病院があること。

今や「くらしごと」みたいな、センスのいい道内の移住情報を紹介するサイトも多く、情報収集はそんなに苦労しなかった。ただ、条件に合うものを絞っていくのに時間がかかり、最初にヒットしたのが、沼田町というところだった。

旭川から45分、深川から20分ほど(確か)、留萌本線が通っていて今はその終着駅は留萌。その先の留萌~増毛が廃線になったばっかりのことは知っていたけど、沿線については全然知識も印象もなかった。

調べてみると、豪雪地帯で、「天然の冷蔵庫」「現代の雪室」とも言うべき、雪を活用した貯蔵施設が普及していた。雪で寝かせて一年中が「新米」と売り出せる雪中米とか、同じようにした酒、農産物とかが人気。〝寝かせる文化〟があり、「発酵」にも通じるな、と気になってどんどん興味がわいた。ネットで石狩沼田駅を見ると、乗降に使っていないホームがあって、コンテナのゲストハウスを置くのにぴったり!ときた。待合室も、交流スペースにふさわしい風情。

旭川から沼田町への道中。石狩沼田駅での、とんでもない着雪がある列車の写真とか、いろいろ消えてしまった

さっそく一カ月後の2月25日に家族5人+(なぜか)おかんで沼田町に行き、視察。役場で「駅活」のプレゼンをして、教育委員会に小中学校を案内してもらい、検討を深めていった。JR北海道本社にもお邪魔して、協力をお願いした。

でも、話は進むどころか、すぐ暗雲が立ちこめた。

まず、特別支援学校に通っている長男の大滋(中1)の受け入れが、事実上不可能で、原則的に60キロ離れた美唄市まで送り迎えする必要がでてきた。

それに、ゲストハウスをやる上で当時一番重視していた、駅ホームの活用が厳しい状況だった。留萌本線はものすごい赤字を抱え、老朽化した設備の維持更新ものしかかる。JRとしてはバス転換を訴えているものの、地元との協議には入れていなかった。しかもこれといった打開策・妙案もない。よくある話だけど、1つの自治体だけでは動けず、事実上、膠着状態になっていた。この厳しさは想定していたものの、沿線自治体はまったく動きがなく、現実的ではないと思って、なくなく断念したのでした。

ただ、ここで大きな収穫があった。面白いローカル資源はどこでも掘ればいくらでもあるし、なにより、何がやりたいのか輪郭が少しずつ明確になってきたことが大きかった。

沼田の場合は駅がキーワード。公共空間、メディアとしてもっとも好きな場所。これを豊かに彩りたい、いろんな人がまじって楽しくしたい、子ども達がふるさとを「いいな」と思えるきっかけにしたい・・・。「公民連携」というとおおげさかもしれないけれど、公共の空間に、自分のアイデアや「いいな」と思うものを加えて、みんなの力でデザインしていくプロセスにこそ興味があるんだと思い知った。そして、その思いがなぜ強いのかを認識することができた。

これまで10年間、新聞記者として取材したきた中で、少なからず心を揺さぶられる経験があった。まさにそれが、「多くの人が混じり合い、公共空間を豊かにしたい」という自分の価値観をつくっていた。                      (つづく)

 

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由① 原体験としての卒業旅行

 

ユースホステルで開いた氷上運動会。スノーモービルを押す競争(だったかな)

なんで北海道?」「なんか北海道にゆかりあるの?」って、しょちゅう聞かれる。

そりゃそうか。突拍子もないような印象を持たれるけど、実はちゃんと理由があって、それは高校生時代にさかのぼる。

2年生の時だったはずだけど、旅行委員というのをやっていた。自由・自主・自律を校訓とするだけあって、卒業旅行の内容を自分たちで考えてみて、というミッションがあった。

旅行好きの自分は嬉しすぎて調べに調べ、どうすれば地元の人と交流できるか、安くなるかとか旅程をまとめて提案した。

でも、あらかじめプランが業者と先生の間で決まっているかのようで、どんな提案も一顧だにされない。もっと安くなるはずのフライト、面白くなるはずのコンテンツがあるのに。大手旅行会社がいかにも得意とするような、ありきたり、商業的なプランになった。なんにも新しくないし、定食みたいだった。完全に大人の都合で組み立てられた旅行で、こんなんで「学を修めることなんてムリ」と猛反発した。保護者から吸い上げたお金を搾取して10万近くとられて、怒り心頭だった。なめられた、一生この旅行社は使わない。

あまりにもムカついたので、じゃあ自分でやろうと、3年生のときに「卒業旅行」を企画した。

地元の人と交わり、ちゃんと空気を吸って、体で北海道を感じる旅。商業的な旅行ではなくて、ほんとに自分たちが楽しめるコンテンツを目指した。修学旅行ではできない旅を自分の手でつくろう。

自分の大学受験はほぼ諦め、授業中も北海道の資料を積み上げて勉強していた。なんどもノートにプラン案を練っては、休み時間に宿や観光協会に電話する。航空機や大きなホテルは大手旅行会社のほうが安くなるので、JTBさんに手配してもらい、破格の取り扱い料金(利益)でやってもらえるように交渉した。すべて大型ホテルに泊まるような提案もあったけど、ユースホステルにこだわって、JTBさんの信用も使わせてもらって、各地と直に相談。取り扱い料金は、修学旅行を担当した某社の半分くらい。某社はほぼぼったくりだったけど、教育旅行の闇を垣間見た気がしたなあ。

国立大学の後期試験の数日後に大阪を出発するプランで、教員の引率もつかないので、学校側や一部の保護者から反発があり、手紙を書いたり直接話したりして説得。受験で不安になってるクラスメートにも説得した。(今思えばけっこう強引だったけど)

そんなこんなで2002年3月17日、大阪駅を出発。特急「雷鳥」に乗って敦賀へ行き、フェリーで苫小牧に入ってトマムリゾート泊、翌日はスーパーおおぞらで釧路にいき、SL「冬の湿原号」に乗って屈斜路湖に向かい、ユースゲストハウスへ。オーナーの和さんと、ギターをききながら語りあい自然との向き合い方を学んだり、クロスカントリーをしたり。次の日は知床斜里方面にでて、ディープな店で鹿の精液をのんだり熊肉を食べたりして、小清水ユースホテルで「氷上運動会」をした。帰りは旭川空港から大阪に戻った。料金は修学旅行の半額くらい。

ユースホステルで開いた、氷上運動会のバレーボール

33人が参加してくれ、号泣するほど感動的な達成感があった。絶景よりも、地域の人と交流することにこそ旅の喜びがあった。この時からずっとメールアドレスは、vivahokkaido.specialthanksを使ってる。なんとなく、北海道にみんなが集まれる拠点をつくりたい、って思った。

自分の原体験のようなもので、33年間の人生でこれを上回るドキドキ体験はいまだにない。

新聞記者を辞めて新しい生き方を考えてるときに、自分のこれまでの人生を棚卸しした。やっぱり、この卒業旅行が一番大きな、圧倒的な存在感があった。これを超えるような、ドキドキ、ワクワクした人生をおくりたい、そうじゃないとモヤモヤは消えないと確信。家族には迷惑なはなしだけど、移住先は北海道しか考えられなかった。      (つづく)

 

 

会社辞めるのをカミングアウトしたので、移住&ゲストハウス計画を綴ります

生まれて初めてのブログ。

1月25日、我が家は「北海道へ移住しよう!」と検討を始めて、はや3ヶ月半。ここにきて、重大局面を迎えることに!

会社に退職したいことを伝え、その準備を始めたのです。「なんてことない」とタカをくくっていたのに、いざ10年以上はたらいた新聞社の幹部に言うと、すこしブルブルした。崖っぷち感というのか、武者震いというのか。

いよいよ現実的なものとして迫ってきたーという感じです。

北海道には180近い市町村がある中、瀕死の路線が多いJRの駅があるか、ライバルになるゲストハウスやパン屋さんがあるか、まちとして面白いかどうか、調べまくったのが最初の一か月。

まず候補にあがったのは、留萌に近い沼田町というところ。

2月25日にみんなで行き、ああでもない、こうでもないと言い合い、自分たちの力ではどうしようもないことが山積していると判明。

JR北海道の本社にも行ったけれど、駅施設を使おうにも廃線が前提になって動けないこと、長男たいしの特別支援学校が60キロ離れていることとか。。。

次が、旭川市の北永山駅前。ここもいろいろあって。。また書こう

そして今回、話が具体化しているのが、宗谷本線の永山駅と北永山駅の中間にある、住宅街。

住宅や、メーン事業のゲストハウスの大枠、協力してくれる方々の顔ぶれも徐々に固 まってきました。

このブロクでは、移住までの足あとや、考えていること、悲喜こもごものできごとを綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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