ローカルへ、もっと奥へ

6月21日の中日新聞(手元にあるのは東海本社発行版)の特報面で、整備に向けて自民党が躍起になっているカジノを取り上げ、訪日客の関心が薄いことを指摘している。

特報面は、東京本社にある特報部という部署がつくり、各地に配信して各地で必要に応じて編集している。特に東京本社(=東京新聞)としては代名詞とも言える目玉コーナーで、政権や社会面にとことん切り込む、骨のある記事が紙面を飾る。自分も学生時代、東京新聞のこのページを穴が開くように読み込み、この会社に入りたい! と思うようになった。

もちろんカジノなんて国が旗を振ってつくるもんじゃないと思うし、なんのためにやって、どれだけの効果があるのか、お金じゃなくて人を豊かにするのか、納得のいく形で示されていないので、いらない。

というのはさておき、この記事では、外国人観光客にカジノのことを質問しまくってて、その一つが目に留まった。

イギリス出身の方いわく「外国人観光客が求めているのは、日本らしさ」「最初は京都や東京などの都会に行っても、リピーターは『本来の日本』を求めて、地方に足を延ばすようになる。どの国でも地方のほうが、その国の空気感を感じられるからだ」と。

まさに地方の時代。「らしさ」の形は地方や地域の数だけあるんだから、チャンスがいっぱい転がってる。飲食も宿泊も、生命線はリピーター。空気感=生活感とも言えるし、普通の旅では飽き足らない人に、ローカルならではの暮らしを体験してもらう。

ゲストハウスに泊まったら、そんな場所にするつもり。

進まない土地選び。もう「地取り」しかない

6月18日、旭川の不動産屋さんに久々に電話をかけた。ゲストハウス予定地として、稚内につづく線路に面した350㎡の土地の所有者と交渉してほしい旨を伝えて、ちょうど2週間たったので。

なかなか土地が決まらない。モヤモヤ、ドキマギする状態はけっこう続いているわけで・・・

法務局に行けば登記事項はすぐ確認できるので、そこから所有者のお名前とだいたいの住所が分かった。けど、実際にその住所をたどってみても、当事者らしき人には行き当たらなかったということ。所有者は女性なので、美容室なんかも当たろうとしていただいたみたいだけど、現時点で見当がつかないとのこと。これは仕方ない。どこまでもお金にならない仕事をお願いするわけにもいかない。

空き家問題が全国的に言われて随分たつ気がするけど、土地にしてもおんなじで、所有者が亡くなったり、相続されても登記されていなかったり、転居してそのままになっていたりと、持ち主が不明なケースはごまんとある。すごい勢いで進めば、大げさでなく国土の荒廃にもつながるので、国もうまく処理・活用できる法整備?かを進めているみたい。逆立ちしても活用できない土地が増えていくんだから、よく考えたら大変な問題。「もったいない」どころじゃない。こんな身近なところで、自分ごととして立ちはだかるとは!

どうしたものかと、地元新聞社の友人や地元の情報通の方を通じて、司法書士(兼土地家屋調査士)の先生に聞いてみた。すると、「昔はできたけど、いまは個人情報をそこまで辿れない。境界で争いがあるとか特殊な事情がない限り、土地を買いたいだけでは調べることは職権でできない。法的にはどうしようもない」とのこと。

げ!

もう、ひさびさに雷に打たれたような感じで、けっこうなショックを受けてしまった。土地ってこんな難しいのね・・・。いろいろあるとは思ってたけど。土地は5月に決める腹づもりだったけど、もうリミットの6月末が迫ってきてるんだなー。変に焦ったり妥協したりはダメなんだけど。

ということで、この週末に現地に行くことにした。なぜか次男を連れて。

事件とかの取材で、現場や関係者の周辺をあたるとき、一軒一軒お家とかをピンポンして、お話を地道に集めていく取材を「地取り」と呼んでます。この土日、まさに旭川で地取りをして、予定地のご近所さんに所有者の行方を聞いたり、登記上の住所の周辺を探ったりしてみようと思う。これ以上、静岡で事件が起きませんように。。。

年内の移住にも暗雲が垂れ込め始めたなー

10月オープンめざし、夜な夜な作戦会議

旭川のゲストハウス計画を手伝ってくださっている、浜松の誇るクリエイティブな男3人と打ち合わせ。

ウェブ、グラフィックやカメラマン、企画プロデュースのプロデザイナー、廃棄物とかゴミを拾ってきて別のものに生まれ変わらせる「アップサイクル」に生きる喜びを感じる建築家、公民連携プロフェッショナルスクールで、全国の猛者からまちづくりを学んだコーヒー店主。すごすぎて、マックすら使えない自分がいつも恥ずかしくなる。

8日夜は、まず大まかなスケジュールの確認。

*6月は返事待ちになってる土地の契約を見込んで、いろんな事前準備。ロゴマークやウェブ制作、名刺づくりに着手。

*7月はいよいよ現地調査と現地めぐり。全体のプランニングと模型づくり。SNSをはじめて写真撮影も本格化させる

*8月は図面制作や見積もり。

*9月はコンテナハウスの住宅(管理棟)完成見込みで、ゲストハウスは図面完成、確認申請。ゲストハウスHPの解説やツール類を作る。告知もスタート

*10月から順次着工で、雪を見ながら作業、という感じ

あーでもない、こんなんどう?と4時間近く。

最重視するターゲット層をもっともっと細かくした方がいい、その人のライフスタイルは?、客単価をどれくらいまで高められるか、どう自分をブランド化していくか、どんな小屋が好きなのか?  いろんな指摘をもらって嬉しいなー。こうやってちょっとずつ(でもあんま時間ない)焦らずブラッシュアップしていきたい。土地が決まれば一気に動こう!

「泊まれる◯◯」

きょう6月 5日の静岡新聞夕刊一面と、5月30日の朝日新聞に、静岡市葵区七間町・人宿町のゲストハウス「泊まれる純喫茶   ヒトヤ堂」が紹介されていた。

武蔵野美大をでた女性2人が、セルフリノベーションで喫茶に新たに息を吹き込んで仕上げたらしい。人宿町は、東海道の旅籠として栄えたんだそうで、ネーミングにも込めたみたい。そうか、ヒトヤド→ヒトヤ堂。おもしろいなー

頭に残ったのは「泊まれる◯◯」というワード。全国で似たような言い回しが多くて、これからは使うのが難しそう。

自分も今年1月くらいの時点で、ゲストハウスの形を考えていた時、妻の茜がパンが好きなので安易に「泊まれるパン屋」にしようと思って、競合がなさそうな地域を探してた。まぁその構想はすぐに潰えるのだけれども。。。

沼津には、「少年自然の家」をリノベーションした、泊まれる公園「INN THE PARK」もある。ここはグランピング的な雰囲気も楽しめるし、ものすごい人気になってる。最新号のmonoマガジンにも載ってた。

「泊まれる◯◯」は、◯◯の部分がオリジナリティある資源や価値に当たると思うけど、それと宿泊を掛けわせて「新しいよ!」ってニュアンスを出すには手っ取り早い。

旭川のゲストハウス構想でも、地域の子どもたちが遊びにくるハイクオリティな「公園」をつくろうとしているので、言っていれば「泊まれる公園」には違いない。表現やコピーはまだまだ考えを深めないといけないな〜。

静岡新聞(新聞記者はシズシンと呼ぶ)の記事には、「地元の人と宿泊者が自然に混じり合えるのがゲストハウスの魅力」とある。完全に同意。濃〜く混じり合える「公園」をつくってこー。

とりあえずヒトヤ堂、ふらりと行ってみよう。静岡だけみても、行きたいところが多すぎて困リ果てる

なかなか土地が決まらない

宗谷本線そばの、黄色い線で囲った角地をあらたに打診することになった

5月28日の月曜日に旭川に行って、信金さんや、許認可関係いろいろある市役所で協議してきたけど、その時も「土地が固まってから具体的に動きます」という域を出ることはできなくて、そのまま今に至る。

うーん、土地がなかなか決まらない。

正確にいうと、予定地というか希望する地面があるけど、契約までいってない。

小学校や旭川大学近くの住宅地で、写真のようにステキな土地があって、もともと売りに出されていなかった角地の交渉を5月2日に不動産屋さんにお願いした。所有者の方が高齢で、親族の方が5月13日に「売る方向で」と前向きに対応してくださったが、その後は音沙汰なく。土地をめぐっては同じ家族でもいろんなスタンスがあったり、外から分からない事情もあるので、急かすものじゃない。このことがきっかけで、厄介な事になったら、やり切れない。

焦ってはいけない。急がない、と言い聞かせてきた。売りに出ていたわけじゃないので、時間がかかるのは当たり前だし。不動産屋さんは「進みが遅くてごめんなさいね」と言ってくれて、恐縮しきり。

でも一方で、他の予定地も視野に入れないといけない気がしてきた。

よく考えたら(考えるまでもないけど)最初お願いしていた角地と反対側にある、稚内に続く線路に面した角地があるやん。しかも、こっちの方がずっと開放感あるし、列車からも見えるし!!

ということで昨日4日、不動産屋さんに、こちらのリサーチと調整もお願いした。

土地が決まってやっと、

①家族全員での地域へのご挨拶

②建築家、デザイナー、公民連携スペシャリストでつくるチームや、コンテナハウスメーカーによる現地調査

③設計図や図面の作成、見積もり

④ロゴなどグラフィックをふくめた計画公表

ーとなるけれど。

6月の渡道予定はまだない。そう遠くないうちに土地が動いて、予定を入れられればいいなー。土地がすんなりいかないもの、ベストに向かうための必要なプロセス。この時にしかできない勉強をして力を蓄えよう。

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由③ しっくりくる空き地

北永山駅から大雪山を望む

(②からつづく)

超興奮して忘れられない取材のひとつは、北陸新幹線開業の前の2014年にインタビューした、デザイナーの水戸岡鋭治さん。JR九州のクルーズトレイン「ななつ星」や九州新幹線「つばめ」などの生みの親で、今では全国各地の列車や病院までも手がけていらっしゃる。

きっかけは、九州新幹線開業で誕生した第三セクター鉄道「肥薩おれんじ鉄道」を走る、全国のレストラン列車の先駆けになった「おれんじ食堂」のルポだった。この列車とコラボレーションするように、鹿児島県阿久根市の阿久根駅が、水戸岡さんの手によってリノベーションされ。それをネットで知った数日ほど後にお披露目会があるというので、金沢勤務(当時)の北陸新幹線の担当記者として、「駅とまちづくり」の趣旨の連載企画を考えて、さっそく出張した。

駅をまるで公民館のように、まちづくりの核として。迎賓館のようでありながらマルシェイベントに使える待合室、超絶オサレな食堂やカフェ、図書館、子どもの遊ぶ部屋がある場に仕立てられていた。ご本人にもインタビューして、感動しきり。ちなみに去年のゴールデンウィークに家族旅行で再訪したら、やっぱり賑わっていて、「やっぱりね」と一人で訳知り顔を浮かべていた。

ということで、水戸岡イズムの真髄に迫ろうと、機会をあらためて、東京にある水戸岡さんの事務所にも出かけた。心を揺さぶられた言葉がたくさん。

◉商店街など個人の持ち物に手をつけるのは大変なので、公共から変えていく。鉄道車両から始めるのが一番簡単で、次に駅、町並み。

◉ちゃんとした駅をつくると、お客さんはまちの意識が分かる。「心地よいものをつくる」という気持ちがわかる。木を守るとか、まちの意識をみている

◉子どもが楽しい、さわりたいと思える一流のものが大事。心地よい古里をつくらないと、子どもは帰ってこない。おいしい水があって魚が帰るのと同じー。

今回のゲストハウス計画で、石狩沼田駅の構想が頓挫したとき、水戸岡さんの言葉が頭に浮かんだ。そして気づいた。

「沼田じゃなくてもできるじゃん!」

存続が確実視されるJRの路線があって、特別支援学校が遠すぎず、環境の良い幼稚園があって、商圏が小さすぎず。。。

さっそく探してみて、その日のうちに3駅の候補が浮上。その中から、田んぼの中に立つような、宗谷本線の北永山駅に惹かれた。

なかなかの雰囲気。高校生のものか、いつもポツンと自転車が置かれていて、たまらない
北永山駅の待合室からの眺望。もうこれは反則

すぐ近くに旭川農業高校(きょくのう)があって、高校生のお客さんが多い。待合室から大雪山が望める。酒米がとれる・・・。グリーンツーリズムのような、長久手時代に学んだ「都市と農村の交流」ができると思い、法務局のインターネット申請で所有者を把握し、絵を描いた。

でも、調べれば調べるほど高い壁が立ちはだかった。

農地なので、転用はめちゃくちゃ難しい。そもそも、開発が制限される「市街化調整区域」なので建築物が原則、新規につくれない。農業を生業にしていないとグリーンツーリズムや農泊ができない。無秩序な開発を防ぐという名目で農地はいろんな法律でガチガチに守られていて、なかなか手を出せない。

とはいっても、それだけでは諦めがつかないので、市役所に攻略のこつを聞き、日帰りで旭川に行って、いざ地権者に突撃!  耕作放棄地っぽい農地を借りれないか打診してみるも、「じつは小作で貸してまして・・・」とあえなく撃沈。

すぐさま近くの石狩川に飛び込みたい思いに駆られたものの、ぐっとガマンして、帰りの飛行機に乗り込んだ。でも翌日からは「でもやっぱこの辺に住みたい」と気を取り直して、土地探しをスタート。そこで今回の予定地にめぐりあった。

そこなら何ができるのか。本当に自分がしたいのは何なのか。

幸運にも、またまた考える機会をカムイ(神さま)が与えてくれた。

自分なりに考えた。公共空間は駅だけじゃない、ドラえもんに出てくるような、土管の似合う空き地も一緒じゃん。ここを公園みたいに心地よくできれば、石狩沼田駅よりも、北永山駅よりも楽しくなるじゃない、とすぐ分かってしまった。

いま旅好きは、ローカルの普段着の飾らない暮らしの体験や、地元の人との飾らないおしゃべりを求めてる。それじゃあ、駅より住宅街のほうが、しっくりくる。

そして今に至る。いまの状態はベストだと思っているけど、どこでどう転ぶか、ハードルがあるか分からない。ひょっとしたら、次のベストが待ち受けているのかも。        (おわり)

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由② 最初の挫折

北海道で人生の大逆転を狙おうと思ったはいいものの、悩んだのが場所選び。180近い市町村があって、良さげな自治体をしらみつぶしに調べていった。

条件はJRの駅があること。競合が多くないこと。空港から3時間以上かからないこと。通える学校があること。病院があること。

今や「くらしごと」みたいな、センスのいい道内の移住情報を紹介するサイトも多く、情報収集はそんなに苦労しなかった。ただ、条件に合うものを絞っていくのに時間がかかり、最初にヒットしたのが、沼田町というところだった。

旭川から45分、深川から20分ほど(確か)、留萌本線が通っていて今はその終着駅は留萌。その先の留萌~増毛が廃線になったばっかりのことは知っていたけど、沿線については全然知識も印象もなかった。

調べてみると、豪雪地帯で、「天然の冷蔵庫」「現代の雪室」とも言うべき、雪を活用した貯蔵施設が普及していた。雪で寝かせて一年中が「新米」と売り出せる雪中米とか、同じようにした酒、農産物とかが人気。〝寝かせる文化〟があり、「発酵」にも通じるな、と気になってどんどん興味がわいた。ネットで石狩沼田駅を見ると、乗降に使っていないホームがあって、コンテナのゲストハウスを置くのにぴったり!ときた。待合室も、交流スペースにふさわしい風情。

旭川から沼田町への道中。石狩沼田駅での、とんでもない着雪がある列車の写真とか、いろいろ消えてしまった

さっそく一カ月後の2月25日に家族5人+(なぜか)おかんで沼田町に行き、視察。役場で「駅活」のプレゼンをして、教育委員会に小中学校を案内してもらい、検討を深めていった。JR北海道本社にもお邪魔して、協力をお願いした。

でも、話は進むどころか、すぐ暗雲が立ちこめた。

まず、特別支援学校に通っている長男の大滋(中1)の受け入れが、事実上不可能で、原則的に60キロ離れた美唄市まで送り迎えする必要がでてきた。

それに、ゲストハウスをやる上で当時一番重視していた、駅ホームの活用が厳しい状況だった。留萌本線はものすごい赤字を抱え、老朽化した設備の維持更新ものしかかる。JRとしてはバス転換を訴えているものの、地元との協議には入れていなかった。しかもこれといった打開策・妙案もない。よくある話だけど、1つの自治体だけでは動けず、事実上、膠着状態になっていた。この厳しさは想定していたものの、沿線自治体はまったく動きがなく、現実的ではないと思って、なくなく断念したのでした。

ただ、ここで大きな収穫があった。面白いローカル資源はどこでも掘ればいくらでもあるし、なにより、何がやりたいのか輪郭が少しずつ明確になってきたことが大きかった。

沼田の場合は駅がキーワード。公共空間、メディアとしてもっとも好きな場所。これを豊かに彩りたい、いろんな人がまじって楽しくしたい、子ども達がふるさとを「いいな」と思えるきっかけにしたい・・・。「公民連携」というとおおげさかもしれないけれど、公共の空間に、自分のアイデアや「いいな」と思うものを加えて、みんなの力でデザインしていくプロセスにこそ興味があるんだと思い知った。そして、その思いがなぜ強いのかを認識することができた。

これまで10年間、新聞記者として取材したきた中で、少なからず心を揺さぶられる経験があった。まさにそれが、「多くの人が混じり合い、公共空間を豊かにしたい」という自分の価値観をつくっていた。                      (つづく)

 

旭川にゲストハウスをつくる3つの理由① 原体験としての卒業旅行

 

ユースホステルで開いた氷上運動会。スノーモービルを押す競争(だったかな)

なんで北海道?」「なんか北海道にゆかりあるの?」って、しょちゅう聞かれる。

そりゃそうか。突拍子もないような印象を持たれるけど、実はちゃんと理由があって、それは高校生時代にさかのぼる。

2年生の時だったはずだけど、旅行委員というのをやっていた。自由・自主・自律を校訓とするだけあって、卒業旅行の内容を自分たちで考えてみて、というミッションがあった。

旅行好きの自分は嬉しすぎて調べに調べ、どうすれば地元の人と交流できるか、安くなるかとか旅程をまとめて提案した。

でも、あらかじめプランが業者と先生の間で決まっているかのようで、どんな提案も一顧だにされない。もっと安くなるはずのフライト、面白くなるはずのコンテンツがあるのに。大手旅行会社がいかにも得意とするような、ありきたり、商業的なプランになった。なんにも新しくないし、定食みたいだった。完全に大人の都合で組み立てられた旅行で、こんなんで「学を修めることなんてムリ」と猛反発した。保護者から吸い上げたお金を搾取して10万近くとられて、怒り心頭だった。なめられた、一生この旅行社は使わない。

あまりにもムカついたので、じゃあ自分でやろうと、3年生のときに「卒業旅行」を企画した。

地元の人と交わり、ちゃんと空気を吸って、体で北海道を感じる旅。商業的な旅行ではなくて、ほんとに自分たちが楽しめるコンテンツを目指した。修学旅行ではできない旅を自分の手でつくろう。

自分の大学受験はほぼ諦め、授業中も北海道の資料を積み上げて勉強していた。なんどもノートにプラン案を練っては、休み時間に宿や観光協会に電話する。航空機や大きなホテルは大手旅行会社のほうが安くなるので、JTBさんに手配してもらい、破格の取り扱い料金(利益)でやってもらえるように交渉した。すべて大型ホテルに泊まるような提案もあったけど、ユースホステルにこだわって、JTBさんの信用も使わせてもらって、各地と直に相談。取り扱い料金は、修学旅行を担当した某社の半分くらい。某社はほぼぼったくりだったけど、教育旅行の闇を垣間見た気がしたなあ。

国立大学の後期試験の数日後に大阪を出発するプランで、教員の引率もつかないので、学校側や一部の保護者から反発があり、手紙を書いたり直接話したりして説得。受験で不安になってるクラスメートにも説得した。(今思えばけっこう強引だったけど)

そんなこんなで2002年3月17日、大阪駅を出発。特急「雷鳥」に乗って敦賀へ行き、フェリーで苫小牧に入ってトマムリゾート泊、翌日はスーパーおおぞらで釧路にいき、SL「冬の湿原号」に乗って屈斜路湖に向かい、ユースゲストハウスへ。オーナーの和さんと、ギターをききながら語りあい自然との向き合い方を学んだり、クロスカントリーをしたり。次の日は知床斜里方面にでて、ディープな店で鹿の精液をのんだり熊肉を食べたりして、小清水ユースホテルで「氷上運動会」をした。帰りは旭川空港から大阪に戻った。料金は修学旅行の半額くらい。

ユースホステルで開いた、氷上運動会のバレーボール

33人が参加してくれ、号泣するほど感動的な達成感があった。絶景よりも、地域の人と交流することにこそ旅の喜びがあった。この時からずっとメールアドレスは、vivahokkaido.specialthanksを使ってる。なんとなく、北海道にみんなが集まれる拠点をつくりたい、って思った。

自分の原体験のようなもので、33年間の人生でこれを上回るドキドキ体験はいまだにない。

新聞記者を辞めて新しい生き方を考えてるときに、自分のこれまでの人生を棚卸しした。やっぱり、この卒業旅行が一番大きな、圧倒的な存在感があった。これを超えるような、ドキドキ、ワクワクした人生をおくりたい、そうじゃないとモヤモヤは消えないと確信。家族には迷惑なはなしだけど、移住先は北海道しか考えられなかった。      (つづく)

 

 

ゲストハウスのはじめかた

「ブランドのはじめかた~5つのケースでわかった経営とデザインの幸せな関係」(日経BP社)を読んだ。ブランド論の本は十年ぶりくらい。

筆者は、中川政七商店の中川淳さんと、エイトブランディングデザイナー代表でブランディングデザイナーの西澤明洋さん。

事例研究は、クラフトビールの地位を築いた「COEDO」、nana’s green tea、HASAMI(波佐見焼)、中川政七商店。

なぜ今、ブランドづくりやブランディングが必要なのか。

とくに中小企業(と書いてあったけど、実際は「小規模事業者」のが近いか)の関係者に参考になるようにまとめられてると思う。

 nana~は創業者の強烈な個性を知れて勉強になったし、HASAMIは瀬戸支局に勤務してたころ、長崎の波佐見焼産地まで行って思い入れがあったので楽しく読めた。

でも全体としては、読後感は今ひとつ。

大きな理由は3つ。

▼鼎談形式のところはともかく、筆者が誰なのか分かりにくい

▼2人の筆者が携わった成功事例をいくつか並べ事業内容を紹介しているが、その分▼量が多すぎて、全体として、手前味噌な感じ、楽屋話感が伝わってくる

その上で、こんご参考にしたいことをメモメモ

◆誤ってコンセプトが言語化されていない段階でいきなりデザインに落としこもうとしても、だめ(28ページ)

◆伝えるべきことをきちんと整理してしっかり伝える、ブランディングはそこに尽きますよね(29ページ)

◆社内にいるとわからなくなってしまうもの。だからこそ自分たちの本当の強みを見いだす段階で、外部の人にはいてもらうことが大切(3ページ)

◆ブランドにはチェーン展開に耐えうる明確なアイデンティティが必要(44ページ)

◆自分の子供のように無条件に事業を愛せるか(50ページ)

◆社長の仕事は、新しい価値を生み出すこと(52ページ)

◆敵がいないことが一番ですね(56ページ)

◆本人がやりたいことを素直に引き出すのがブランディングの基本(77ページ)

◆デザイナーが入る前段階、つまり「何のためにどんなブランドをつくるべきか」をきちんと考えること(82ページ)

◆「ブランディング」=「差別化」は「フォーカス」から生まれる(138ページ)

◆ブランディングデザイナーとして、「何をデザインすべきか」という問題もクライアントと一緒に決めていく責任がある(146ページ)

◆(理想とするブランドづくりのプロセス=)リサーチ→プラン→コンセプト→デザイン(147ページ)

◆差別化されたモノをつくるためにはお客様が発する声よりも半歩先にいっている必要がある(149ページ)

◆ブランドはあくまでお客様の頭の中にできるのであり、お客様の頭に届けるにはデザインの力が欠かせない(150ページ)

◆「コードの発見」=「〇〇らしさ」というものをつくっているデザイン的な表現の要素の構造を把握すること(151ページ)

◆「〝やりたいこと〟と〝できること〟を整理し上で〝差別化のポイント〟を見極める」(154ページ)

◆核になる考え方を明確にするため〝言葉として結晶化させてしまう〟 具体的に言うと1センテンス、たった1つの文にまで集約させます。その一言が、開発の方向性を示す軸、つまりはブランドコンセプト。外部にそのコンセプトを説明する際には、言葉不足になる場合もあるので、かみくだいた形で説明した、300~500文字程度のブランドステイトメントを用意するようにします(158ページ)

◆コンセプトを体現しないものは一切おこなってはいけない、という縛り。良かれと思って後から〝あれもこれも付け加えよう〟とでてくるのが常だからです。つくり手の性といってもいい(159ページ)

◆コンセプトからデザインまでのつながりは理詰めだけでは発見できない。クリエイティ・ジャンプと呼ばれる一種の飛躍が必要。最終的にはいくら考えを言葉で表したとしても、その言葉で売れるわけではなく、商品になったときのデザインであったり、キャッチコピーであったり、ネーミングであったりといった感性的な部分がイメージの直接の要因になります(164ページ)

◆ブランドは生き物。「連続性がある」とはつまり、ストーリーとしてその変化を語ることができるとも言い換えられます。人と同じです。私はこういう経験を通して、こういう変化をしてきたのだと。そのストーリー性が納得と共感を生む(196ページ)

◆ポジションを拡大しすぎない。ブランドとしての力がつけばつくほど、商品の幅を広げたくなるものです=「ライン拡大の失敗」(196ページ)

旭川のゲストハウスは、いったいなんなのか、何を目指すのか、何をしたいのか。どう生きたいのか。

を1センテンスで。ここめっちゃ大切なのでとりあえず寝よう

会社辞めるのをカミングアウトしたので、移住&ゲストハウス計画を綴ります

生まれて初めてのブログ。

1月25日、我が家は「北海道へ移住しよう!」と検討を始めて、はや3ヶ月半。ここにきて、重大局面を迎えることに!

会社に退職したいことを伝え、その準備を始めたのです。「なんてことない」とタカをくくっていたのに、いざ10年以上はたらいた新聞社の幹部に言うと、すこしブルブルした。崖っぷち感というのか、武者震いというのか。

いよいよ現実的なものとして迫ってきたーという感じです。

北海道には180近い市町村がある中、瀕死の路線が多いJRの駅があるか、ライバルになるゲストハウスやパン屋さんがあるか、まちとして面白いかどうか、調べまくったのが最初の一か月。

まず候補にあがったのは、留萌に近い沼田町というところ。

2月25日にみんなで行き、ああでもない、こうでもないと言い合い、自分たちの力ではどうしようもないことが山積していると判明。

JR北海道の本社にも行ったけれど、駅施設を使おうにも廃線が前提になって動けないこと、長男たいしの特別支援学校が60キロ離れていることとか。。。

次が、旭川市の北永山駅前。ここもいろいろあって。。また書こう

そして今回、話が具体化しているのが、宗谷本線の永山駅と北永山駅の中間にある、住宅街。

住宅や、メーン事業のゲストハウスの大枠、協力してくれる方々の顔ぶれも徐々に固 まってきました。

このブロクでは、移住までの足あとや、考えていること、悲喜こもごものできごとを綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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