「阪神大震災」の記憶

高槻市を中心に大きな被害を出した大阪府北部の地震。震度6弱は近代的な観測が始まって以来初というのもびっくりやけど、関西の人にとっては、1995年の阪神大震災の記憶がよみがえって苦しくなった人もいたんじゃないかと思う。

西宮にある実家は今回、食器が割れたらしい。出勤途中の叔母は電車が動かず、足止めをくらった。それだけでも軽いことではないけど、あの時は今思えば、すさまじまった。

23年前も、建て直す前の実家は、これ以上ないというくらいに食器という食器は割れ、玄関のドアは開かず、水槽が割れた。二階で寝てたけど飼っていたセキセイインコがけたたましく鳴き叫び、その直後にドン! と襲われた。タンスが倒れてきて、打ちどころが悪ければ親も無傷ではいられなかったと思う。電気がつかず暗いなか、ピチピチと跳ねる金魚を踏みつけて一階の様子を探った。

阪急電車や阪急電車は、特撮のゴジラ映画みたいにレールが波打ち、慣れ親しんだ駅舎はボコボコになっていたところもあった。JRもしばらくずっと寸断されていて、発災から時間がたってから、避難していた金沢から神戸市の祖父母宅に向かう時なんかは、日本海側まで迂回していたくらい。鉄道がつながっていない状態は、精神的にもなかなかきついものだと、子供ながらに思ったなぁ。

地震の起きた日は、小学校の体育館で一夜を明かし、そのあとは親戚の家を転々とした。ボランティアのおばちゃんから体育館でもらったオニギリがおいしかったこと。長い列に並んだ給水の時、小学四年生の自分にとってポリタンクは重いからか、知らないお兄ちゃんがスケボーを貸してくれたこともあった。居候している家のトイレは流れないから、家族以外の汚物も一緒にどんどんたまっていった。

自然の揺れひとつで、人はこんなにも不自由するのかと思うと、水や電気、交通といったインフラが当たり前にあることは実は当たり前じゃないんだ、と分かった。

今回も報道されていないところで、大変な思いをされている人がたくさんいるはず。散乱した家の中の片付け一つとっても、途方にくれてなかなか手につかないはず。通勤・通学の時間帯を襲ったこともあって、都会は災害に脆弱だなあと、しみじみ、あらためて考え込んだ。

亡くなった4人の方々に手を合わせる。9歳の女の子も先を閉ざされてしまった。いつも通う学校にある、何度も見て慣れ親しんだ壁が、絵の描かれた可愛らしい壁が、自分に覆いかぶさるという恐怖を想像する。

倒れてきたブロック塀の下敷きになることは、これまでもあったらしい。大きな地震はどこでも起きる。絶対に繰り返したくない。明日は静岡で起こるかもしれない。

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