||| 鳥越弘嗣さん ///コーヒーのように、ブレンドの楽しさを伝えるお米マイスター。一人ひとりに合った味でもてなす元ホテルマン

1965年、北海道・紋別市生まれ。札幌の有名ホテルでバイヤーとして経験を積み、妻の実家である旭川の「上森米穀店」の暖簾を守るために45歳でお米の世界に入った。この10年で、地元の園児からこだわりの飲食店、名だたるホテルまで、多くのファンの舌を肥やしてきた。

札幌の専門学校で経理やコンピューターを学び、ホテルでは徹底した原価計算のできるバイヤーとして年間で8~10億円を動かしていた。料理長と一緒に商品開発したり、イベントを考えたりと現場で走ってきた。

義父が病気で倒れたことを受けて、2010年に旭川へ。自身の実家は旅館で、経営者になることが夢だったので、抵抗なく未知の世界に踏み入れることができたという。

食糧管理法がなくなり、流通が大変化して、お米はどこでも買えるようになった。先代のころから、「もうお米屋さんの時代ではない」と言われてはいた。ただ、前職の経験から「どの業界にいても勝ち負けはある。(事業が)続いていたら勝ち。昔のような商売ができなくなったとしても、いろんな売り方がある」と確信。単に農家から仕入れて売るだけでは、立ち行かなくなることは明白だった。

ごはんソムリエ、雑穀マイスターとして何ができるか―。たどり着いたのが、客に合ったブレンドの提案だった。かつてブレンド米は「くず米を何かに交ぜる、まがいもの」というイメージがあったが、「本来は良いものと良いものを掛け合わせて、もっと良くするためのもの」だ。コーヒーならブレンドするのが当たり前。それがお米となると、すぐには理解されない。ここをなんとか打破したかった。

新米の時期、年を越したころ、夏場と、どうしてもお米の味は変わっていく。精米してから2週間で酸化は進行する。天候や農家による、質のばらつきも無視できない。だからこそ、ブレンドがものを言う。多くの農家とパイプがあり、エンドユーザーとつながる問屋の出番だ。

お客がどんな米が好みで、味や楽しみ方をどう変えていきたいのか。普段食べているお米に不満はないか―。「バサバサして甘みや粘りがないなら、『おぼろづき』を入れたらおいしくなりますよ」「『ゆめぴりか』だけと『ななつぼし』だけ、どう違うか試してみませんか」「たまには雑穀で食物繊維と鉄分を補いませんか」。客のニーズを探り、提案する。

理想としているのは、「カレーだから黒米にしようか」「どんぶりご飯だから『ななつぼし』かな」「白魚がメーンだから『ふっくりんこ』はどう??」と、食卓にどのご飯を使うかの話題がのぼる光景という。

精米のブレンドにとどまらず、見せ方や楽しみ方を提案することに余念がない。

飲食店や美容室で大人気の「黒米茶」や、木工イベント(旭川木工コミュニティキャンプ、AMCC)から生まれたキューブ状のパッケージ商品「きゅーと米」など、多彩な商品展開で知られている。当麻町の原弘治さんの森「IKAUSI CLASS」では、古い一升炊きの羽釜を持ち込み、おむすびに合うようお米をブレンド。ホウバに包んで香りを楽しみながら食べるイベントに携わった。

お茶のショップ「USAGIYA」本店で紹介されている黒米茶

かねて、食育には強いこだわりがある。旭川市内の保育所へは雑穀を含めたブレンド米や、みそ汁のだしの具を卸している。ミネラル不足が叫ばれているからこそ、だしを取る大切さを伝える。「和食は本来、日本人に合う食事で、栄養を考えるととても理にかなっているんです。体と頭をつくる朝ごはんの大切さとおいしさを覚えてもらいたい」と力を込める。「日本一の給食」で知られ、NHK「プロフェッショナル」にも取り上げられた置戸町の佐々木十美さんのイベントでご飯を炊き、サポートしている。

仕入れているのは、旭川市内や東川町、東神楽町など近郊の農家の米。旭川公園のお膝元の永山地区の農家とも付き合いが深い。この辺りのお米がおいしいのは、「日本酒にも使われているほど、大雪山の伏流水がきれいなことですね」。この地域の米を紹介する先は地元にとどまらず、遠くは沖縄の料亭に、宿では「北海道ホテル(帯広市)や旅館「中村屋」(糠平温泉)など人気施設に卸している。

「小さい米屋だから、できるんです」。地元の農家が丹精した一等米を預かり、マニュアル仕様の機械で丁寧に精米し、お客ごとに最高の形で届ける。旭川公園の朝食で提供するブレンド米づくりでも協力する。

店内の小さな黒板には、ブレンド米を勧める文言のそばで、大きな思いを添えている。

「お米は人々のこころのふるさとです」

||| 石黒康太郎さん ///「遊びをつくる」が仕事の当麻人。夢は仕事をつくり、ごちゃまぜの地域をつくること       

1980年、札幌市生まれ。福祉の道に入ろうと進んだ大学で、障害ある人を支える楽しさを知り、当麻町の施設で11年間、利用者と一緒に過ごしてきた。縁あって当麻町の振興公社に入り、まちづくりの世界へ。「これ、いけんじゃない?」「じゃあやりましょう」。スノーハイクやスノーシュー、鍾乳洞ナイトツアー…と矢継ぎ早に企画を打ち出し、やってみるという仕事を繰り返している。ただ自身は大きな「課題」を抱え、実現したいとっておきの「企画」を秘めているらしい。

高校3年の時、祖母が病気になり、ヘルパーが自宅に来るようになって高齢者福祉に興味をもった。道内の医療系の大学で実習に参加したが、コストや手間を惜しむことばかりが優先されていることに反発し、意見をして煙たがられた。紹介を受けて札幌で障害者ボランティアを始め、「こんな楽しい仕事をなんで知らなかったんだろう」と衝撃を受けた。施設で当直をして、明けてから授業に行くという生活を送った。

喜怒哀楽がストレートで、自分の感情に素直。自己防衛本能が強い。普段との些細な変化に気が付き、手を差し伸べる人もいる。「障害を持っている人にはかなわない。だから一緒に過ごしたい、働きたい」。そう思うようになり、卒業して2日後から当麻町の施設で働いた。

東日本大震災が発生し、北海道庁から派遣されて岩手県山田町の障害者支援施設でサポートした。「家族の助けがない利用者にとって、頼れるのは職員しかいない」と痛感。下の子どもが生まれたばかりだったが、自分の家族には「大きな震災があったら、みんなを置いて施設にいくから」と決意を伝えた。

年末年始に寄る辺のない利用者がいたら、一緒に年越しをした。帰省しだしたほかの利用者の動きが気になって調子を崩していた人も、妻の実家に招いて同じ時間を過ごすと、穏やかになっていくのが分かった。「この仕事をやってて良かった」と思えた。休みの日はバーベキューをしたり、屋久島に旅行に行ったりと、利用者第一の仕事をした。周囲からは「公私混同だ」と批判もあったが、意に介さなかった。

「『護ろう』という意味がある『介護』ではなくて、できることや得意なことをどう増やすかの『支援』。どうすればできるようになるか、という発想が大事で、行動や人生の選択肢は多いほうがいい」と言う。

当麻町に越してきてから、地域のイベントや団体の集まりには極力顔を出すようにしていた。地元の人が「見どころがない。なにもない。面白くない」と言うのならばと、面白いモノやコトを見つけようとした。人脈も広がっていき、人材の宝庫で、すぐに動けるコンパクトさがある当麻がどんどん好きになっていった。

2016年7月には「とうま振興公社」に転じ、20本近くの企画を放ってきた。「こういうのやりたいんだけど。これいけるんじゃない?」と言えば、周りから「だったらこうしたら?」とすぐボールが返ってきて、組織内で調整してすぐ試し、振り返って報告する。それをルーチンワークにしてきた。「自分が楽しいと思ったことを信じてやってきた。全部遊びから、新しい企画がうまれる。子どもの発想をもったおっさんの集まりなんですよ」とトレードマークの髭をさする。

実際のツアーやイベントでは、アウトドア全般の知識をフル稼働させて、子どもでは考えつかないようなリスク管理から、参加しやすい仕掛けまで手がける。雪上テントや、大樹のそばで、得意のコーヒーをいれて楽しませる。

地域づくりでは、「ごちゃまぜ」が一番いいと考えている。小さい町だからこそ町役場や公社、民間が垣根を越え、当麻以外の地域の人たちも巻き込んで一緒に動く。そして、それぞれの役割を認識し、意見をぶつけ合う。当麻町のまちづくりに関わって、初めて「強いチームってこういうことなんだ」と分かったという。

ごちゃまぜの地域をつくるには、障害のある人が楽しみ、力を発揮できる場所が必要だ。「例えば大雪山系の旭岳に登ろうと思ったら、それなりの準備やリスク管理がいる。でも当麻なら、もっと気軽に行けるフィールドがある。その時に、車いすを押すような仕事を障害のある人にやってもらうこともできる。当たり前に一般就労ができるようにしたい。障害を持っている人もない人も地域で仕事ができて、楽しく生活できるような町にしたい」

大学3年のとき、ボランティアで親しくなった障害のある女性が妊娠し、周囲から出産に猛反対されることがあった。「あたしと石黒と、何が違うの?」 そう聞かれた場面が、ずっと頭に焼き付いている。「生涯の課題。まだ答えを探してるんです」。全力で遊び、楽しんだ先の当麻にこそ、見つかるような気がしている。

||| 坂井寿香さん ///「半農半デザイン」が武器。お米・トマト・寒締めほうれん草をつくる農家&グラフィックデザイナー     

1983年、旭川市東旭川生まれ。学生時代にデザインを学び、卒業後は市内で経験を踏んだ。「坂井ファーム」の農場長のご主人と結婚し、いまは東旭川の「ペーパン」と呼ばれる地区で暮らす。米を中心にトマト、ほうれん草を栽培する農家を助け、子ども3人を育てる傍ら、グラフィックデザイナーとして地域の盛り上げに一役買っている。

ペーパンはアイヌ語で「甘い水」を意味する。「米飯」とも書き、豊田・瑞穂・米原とお米にちなんだ集落からなる。地区には旭山動物園の近くで倉沼川で合流するペーパン川があり、知る人ぞ知る美味しい湧き水もある。文字通りの米どころで、坂井ファームはその入り口の豊田に拠点を構えている。

米飯地区移住ポータルサイトHPより抜粋

中学一年の時、技術の授業でラジオを作り、そのラジオから流れてきた渋谷系のミュージシャン「ピチカート・ファイブ」のとりこになった。CDショップに行ってみると、ジャケットから何から、そのかわいさにはまったという。幼いころからエレクトーンを習っていたこともあって、音楽にも美術にも興味が深まっていった。

北海道教育大学の旭川校の美術コースでデザインのゼミに入り、デザインについて「広く浅く」学んだ。卒業してからは旭川市内の個人事務所で働いたり、広告代理店でチラシを手がけたりして経験を重ねた。

旭川公園ゲストハウスのHPを制作してくれた、鈴木裕矢さん㊧と

坂井ファームの一員となってからも、シールや名刺のデザインなど地域からの仕事が舞い込み、家族も「好きなようにやっていいよ」と温かく応援してくれた。自社の加工品では、できるだけ農薬を使わずに丹精したミニトマトのジュース「週末のペーパン」のパッケージをオシャレに彩った。「週末のペーパン」は、北海道新聞旭川支社が発行するフリーペーパー「ななかまど」(2019年11月30日)では、「澄み渡るような爽やかな甘さが一口目から広がり、飲むほどにフルーツに負けない甘さがあふれてゆく」と紹介された。

坂井ファームのお米(ゆめぴりか)、ドライトマト、「週末のペーパン」


同じ東旭川にあり、カフェやショップが点在する「桜岡」のガイドマップも作った。お店めぐりをすると、そこかしこで手に取れる。毎年7月に「クラークホースガーデン」で開かれる、「Sakuraoka Holiday(サクラオカホリデー)」にも携わる。

東旭川にとどまらず、体験型観光プログラムを提供する「アサヒカワモトクラシー」のデザインも担当している。

「アイヌ文化に気軽に触れられるように」との思いで、道産トドマツの活用で知られる「北海道ポットラック」が企画したアイヌのくらしシリーズ「AINU FOLK ART」にも携わっている。二風谷地区に暮らすアイヌの人に監修してもらい、伝統的な文様をベースにした雑貨をデザイン。道の駅や旭川駅近くのセレクトショップでひときわ目を引いている。アイヌ語を使った施設や商品は多いけれど「きちんとアイヌの考えや歴史を理解してからじゃないと、とても扱えません」とじっくりアイヌ文化に向き合う。

「AINU FOLK ART」ホームページより抜粋
A

今後は、家業の農業にデザインを取り込むことに、より力を入れるつもりという。「農家もデザイナーもいっぱいいる中で、農業もデザインもできる強みを生かしていきたいですね」

||| 高岡一男さん ///北海道で唯一の桶職人。樹齢500年、富良野で育ったイチイの木で70年間手作りする「森の名人」 

ドラマ「北の国から」で知られる富良野市・麓郷に、懐かしい木の香りが立ち込める作業場がある。主は、北海道で唯一の桶職人として知る人ぞ知る、高岡一男さん。天皇陛下と同年だそう。「私はもうちょっと頑張ります。無理しないように」と現役を続けている。

北海道新聞の記事によると、父親が東大演習林の演習林にあるイチイ(オンコ)に惹かれて豊浦町から移住した。イチイは富良野市の木でもあり、堅くて狂いが少ない。高岡さんは14歳から職人として桶を作り始めた。演習林が払い下げた樹齢500年の木目の詰まった高級品を使い、乾燥から一か月以上かけて完成させる。国土緑化推進機構の「森の名手・名人」に、道内から初めて選出された。

かつて周辺に桶店はいくつもあったが、プラスチック製品が普及し、立ち行かなくなる同業が相次いだ。それでも本物の逸品を求めるファンに支えられ、注文を受けて品がなくなったら制作している。作業場横の棚には、お櫃や寿司桶、湯桶が布をかぶって来客を待っている。「来てもらえると、本当にありがたいんです」と身を小さくする。

桶以外も作っていて、「知床太鼓」や、名寄市の高さ2mの大太鼓も手がけた。長く大事に使ってもらうために、修理して付き合うことが欠かせない。「どうしても、うちでやってあげないといけないところがあるんです。やめられないんです」と衰えないプロ意識ものぞかせる。

「北の国から」では、高岡さんが作った水桶が使われたという。旭川公園ゲストハウスでは、高岡さんが丹精した2合のお櫃2つと、3合のお櫃1つをご用意して、朝食で提供します。

||| 横田宏樹さん ///森から始まる『家具づくり』を売ろう」。旭川と静岡を往復して呼びかける、木こり経済学者 

昭和52年、滋賀県彦根市生まれ。静岡大学と名古屋大大学院を卒業し、8年余りのフランス留学をへて旭川大学へ。学生時代から自動車産業を研究してきたが、地元の「旭川家具」に魅せられて研究テーマに選び、どっぷりとはまった。2018年秋から籍は静岡大に移ったが、頻繁に旭川との間を行き来し、学生を指導する。静岡も旭川も日本五大家具産地。「地域産業として持続するには」を考え続けている。

旭川では、世界的に有名な家具メーカーや木材会社、業界団体などを学生と一緒に訪問してつぶさに聞き取り、川上である森側と、川下であるメーカー側に大きな隔たりがあることを痛感。地域材の活用など、地域と家具産業のつながりを強くしていかないと、産地が持続しないと見通した。山主、製材業者、メーカー、販売業者をつなげた「森林業の6次化」「ネットワーク化」がカギになるとみて、地域ならではのストーリーを見せていく「『家具づくり』を売っていくべきだ」と説く。

だからこそ、「木こり経済学者」を名乗る。自ら山に入って材を選び、顔の見える作り手と一緒に家具を仕上げるプロセスを重視。ゼミ生と一緒に「森から始める、出口の見える家具づくり」を実践している。山主・木こりとしては自伐型林業を展開する「里山部」の清水省吾さん、家具職人としてはガージーカームワークス出身で当麻町地域おこし協力隊の原弘治さんが全面的に協力する。

旭川大の学校祭ではシラカバの木を切って店舗にした「木育カフェ」を構えて来場者の人気を集め、図書館ではナラを使ったスツールを制作。旭川家具の祭典「旭川デザインウィーク(ADW)」」でもブースを置いて発信した。横田ゼミは旭大(きょくだい)の名物ゼミに育った。

フランス留学中は常にお腹をすかせていたが、手元に小麦粉はあった。自らうどんを打ち始め、やがてパーティーを自宅で開くまでになった。

今の自宅は、ヨーロッパでも知られる旭川家具のイスや、旭川の若手職人が手がけたテーブルで彩られる。夜は研究や読書に没頭するが、ゼミ生を集めた飲み会ではワイングラスを片手に饒舌になる。マイクに握り替えると、室内は一気にパーティームード。エアロスミスになりきり、流暢な英語で全身で歌う。

||| 清水省吾さん ///持続可能な森づくりへ、ぜんぶ自分で。時には「切らない」も選ぶ、会いに行ける木こり。

昭和61年、苫小牧生まれ。旭川大学でコウモリを研究したのをきっかけに、その棲家である森の魅力に引き込まれ、2014年、ついに山を購入してしまう。「旭川公園ゲストハウス」予定地から車で10分ほどの「突哨(とっしょう)山」の一部4.7haを、「里山部」のフィールドとして管理。まちに出て「顔の見える林業」をアピールするだけではなく、森林をシェアしてもらおうと、まちの人を森に呼び込んでいる。

最近では道内外で講演をすることも多く、プレゼン冒頭の十八番は「フリーで木こりやってます」。仕事道具は軽トラとチェーンソー。重機を一切使わない〝漢気(おとこぎ)〟にこだわり、「北海道一、環境にやさしい木こり」を自任している。時折、道外に修行に出かけ、〝漢気〟を磨くとともに、自分の立ち位置と針路を客観視することを忘れない。2019年3月には奈良県・吉野で山籠もり。巨大なヒノキと闘った。

自ら山を所有し、下草刈りや枝打ち、間伐といった管理をして、顔の見えるお客に家具材や薪を販売する。こうした「自伐型林業」を広げようとNPOも立ち上げた。木の命と向き合い、森全体のことを考えて切るべきではないと判断したなら、「切らない」という選択肢も手元に残す。森の価値を最大化しないと、産業としても自然としても持続可能ではなくなると信じているからだ。

全国的に山主が森林組合や企業に管理を任せていて、「所有」と「管理」が分断されている現状がある。補助金を得るために大規模に重機を使って皆伐する現行林業に対し、強烈に異を唱える。「森を見ず、生態系のバランスを崩し、森の価値を次代へ引き継がない」。反発をいとわず、自分の信じたスタイルを貫く姿に共感が広がっている。

と書いてくると、硬派なだけの木こりに聞こえるが、さにあらず。北海道では珍しい里山を身近に感じてもらおうと、火おこしやハンモック体験、森林ウオーク、サバイバル体験、冬はスノーモービル、スノーシュー、スノーキャンプなど、お客の「これやりたい」を広く叶える。旭川のまちなかから近い突哨山だからこそ、できることがある。

スプーンを作る「削り馬」に乗る清水さん

2019年の「旭川冬まつり」では雪像が居並ぶ白一色の会場に、イメージカラーのオレンジの作業着をまとい、「焚き火ソムリエ」として活躍。シラカバの木で火を起こし、寒さで震える来場者の心をつかんだ。

農業も漁業も、消費者は産地や生産者に気を配るようになってきたのに、林業はまだまだ。「清水さんのトマト」はあっても、「清水さんのシラカバ」はなかなかない。でも、ないならやるのが清水さん。そしておこがましくも、「小規模だからこそ」の思いは筆者も一緒。「清水さんのシラカバ」で、旭川公園ゲストハウスのオリジナルスツールを作るプロジェクトがもっか進行中であります。

||| 原弘治さん ///ツリーハウスをみんなで作る。家具や料理も素材を生かしきる。当麻町を愛する職人

昭和56年、札幌市生まれ。旭川で家具職人として頭角を現し、「旭川公園ゲストハウス」予定地そばの当麻町で、地域おこし協力隊として活動する。町内の森2haを手に入れ、森に暮らすように楽しんでもらおうと「IKAUSI CLASS(イカウシ・クラス)」と名付けた。森や外遊びが好きの人を集めてツリーハウスを作るイベントを開いてきた。

若手職人を多く輩出している旭川高等技術専門学院で家具づくりを学び、在学中に技能五輪の全国大会で金メダルを射止める。個人事業主をへて若手職人によるメーカー「(現)ガージーカームワークス」の工場長として現場を率いたが、忙しく仕事に追われるうちに、「森の中で暮らしたいという小さい頃の夢を叶えたい」「森の中で木と向き合って家具をつくりたい」という思いを膨らませていった。

作業ができる倉庫や納屋を探し始め、最初に目をつけたのは美瑛町にある物件。資金の相談を義父にしたところ、もっと良い物件があるんじゃないかと探してくれた。紹介されて当麻町の物件を見に行くと、築40年の一軒家が。工房にするには少し狭いが、話すうちに所有者のお年寄りの女性は「山も一緒にもらってほしい。」と言い、6000坪の森と家を良心的な価格で譲り受けることになった。

生活コストを下げるため手掘りで井戸水を出そうとした。無心に一年やっても出てこなかったが、ある時、水たまりを見つけた。湧き水だった。自然の資源を大切に生かそうという気持ちに包まれた。

森を買ったはいいものの、何をするか決まっているわけではなかった。風や雪の重みで倒れたものを切ったが、積んだままにしておくと虫が中に入って腐らせてしまう。周囲に「何かやろうよ」と声をかけられ、「そういえば、ツリーハウスを森につくる夢があった」と思い出した。森に人を呼ぶにもうってつけだ。2018年の冬から月に2回のペースで、ツリーハウスづくりのイベントを始めた。

カラマツの人工林が茂る「IKAUSI CLASS」。この森の、大きく成長する見込みのない木だけを選んで使い、丸太を組み合わせて、チェーンソーで板に製材する。食事を囲み、暖を取るときに必要な薪はみんなで切る。完成時期は決まっていないけれど、それもまた楽しい。

原さんは北海道が認定する木育マイスターでもある。イベントはツリーハウスをつくるための作業だけに終わらず、近くに落ちている枝でバターナイフを作ったり、参加者みんなで森の散策したり。

原さんは落ち着いた、優しい語り口で呼びかけてくれる。「目を閉じて、森の音に耳を澄ましてみましょう。鳥の声、風の声が聞こえませんか?」「木は一本一本、生き方が違う。気になる木に抱き着いて、対話してみましょう」「雪の上にウサギの足跡がありますね。どんな状況でついたのか、想像してみましょう」

幼い頃は大工に憧れ、手先が器用で素材に触れるのが好きだった。小学生のころは飛行機模型づくりや、自分で研いだ刃物で木を切るのに長けていた。中高では伝統工芸の名手が木工の先生で、刺激を受けるうちに、インテリアデザインへの学びも深めていった。ガージーカームワークス時代にデザインした照明は、今でも旭川デザインセンターやショールームでひときわ存在感を放っている。

自らの「IKAUSI CLASS」にとどまらず、当麻町の自然豊かなフィールドや、旭川のまちなかでもイベントを企画・運営する。そんな時に臨時開店するのが「はらみちキッチン」だ。

2019年2月にあったスノーキャンプでは、お米は食感や食味を考えて地元の複数の品種を独自にブレンドし、焚き火で炊いた。特別に仕入れた鶏の半身を前日に漬け込み、タンドリーとハーブで鍋でいただく。ハーブチキンの煮汁でお米をたくと、炊き込みご飯になった。「チキンは温まって、喉を通りやすい。みんなでつっつくのでコミュニケーションが生まれるな、と考えたんです。完成形をイメージして、組み立てる。これは家具づくりと一緒ですね」