「橋の下」で感じる人間のエネルギー

豊田市で毎年やっている「橋の下世界音楽祭」という、とんでもないイベントに行ってきた。

なにがとんでもないのか始めに言っておくと、集まったエネルギー、生命力、アツさ。半端じゃない。お世辞にもキレイ目じゃないし、こじゃれた感じでもないし、背伸びがないけれど、根っこにある哲学はオシャレ極まりない。

5月に蒲郡であった「森、道、市場」が海岸にたたずむコンクリート打ちっぱなしの建物とすれば、こっちは河川敷に並ぶ、人間くさいほったて小屋。誤解なきよう付け加えると、どちらも人とのつながりを感じ、楽しいしビリビリくるけど、向いてる方が違う。「橋の下」はよりフラットな関係性があり、人間としてのネイティブ感が会場に漂ってる。漢字一文字で表せ、言われたら「原」「生」って書くと思う。

会場は、名古屋グランパス(試合見たことないけど)でおなじみの豊田スタジアムの横の、橋の下。

名鉄の豊田市駅方面からスタジアムを目印に歩くと、〝選手層〟の厚さに目を奪われる。パンクなおじさんや宮古島の海のような色のモヒカンお兄さん、ペコちゃんみたいな服を着たオネエサン、原宿にいそうなOL(死語)風の女性まで。この界隈では日本中の入れ墨メンズが終結したに違いないし、みんなの分を集めれば子ブタのタイニーハウスくらいは作れるくらい、ひげを蓄えた人が多い。リアルな感じがする。

入り口らしい入り口はなくて、入場料も取られず。投げ銭方式でお金をだし、演者側と参加者の垣根を低くしているのだそう。これはなんか嬉しい。

いかにも下町にありそうな、くたびれながら頑張ってる風情の屋台が並ぶ。どっからか持ってきたのかと思ったけど、ここで一から短期間で仕上げただろう雰囲気が木から漂っていた。人間のにおいがプンプンして、たまらない。一つのまちになっていて、土ぼこりさえ懐かしい。雑多な人がいて、アジアンな雰囲気もまじっていて、この活気が心地よい。

飲食の屋台にはたいてい二階の座敷があって、ドジョウやたこ焼き、アユの塩焼き、かき氷といろいろ売ってる。歩き始めて15秒ほどで、車で来たことをMax後悔した。妻の茜は当然のように、「帰り運転するから」と即座に言ってきた。

2017年版のHPのイベント趣旨概要には、「橋の下では役職も何も関係なしに、裸の人間と人間であるだけなわけです」「河川敷から竹を800本程刈りだし、街から出る建築廃材を集め、そこに集まったゴミで何ができるのか、設計図無しのジャムセッションのように大工や職人達が3日間の幻の橋の下町を創っていきます」とある。まさにこの通り、カオスな空間が広がっていた。2013年からは、オフグリッド(送電網から独立した)の太陽光発電がステージとかの電力をまかなうようになったらしい。

まわりのお客さんはやっぱり個性的で、自分は音楽に明るくない上、みんなで大きな声を一斉に出したり、ホーム上の駅員さんの安全確認よろしく一斉に右手を降ったりするのが苦手なので、最初は圧倒されびびっていた。

でも、そんな自分でも30分いれば取り込まれる包容力と説得力が、この橋の下にはあった。

自分にとって一番大きかったのは、子どものエリア(ひょっとしたら農エリア)。なかでも、ニワトリの解体ワークショップだった。命をいただく、もっとも重要な瞬間には立ち会えなかったけど、毛をむしられたニワトリの体が、細かくなっていく過程に釘付けになった。

抱っこされて見ていた4歳の陽己はなかなか驚いた様子で言葉少なだったけど、たくさんの小学生くらいの子どもが、まな板と講師を取り込んで、食い入るように楽しんでいた。

砂肝はなんのためにあって、骨と内臓はどうくっついているのか。よく聞く部位の肉や、内臓を一つ一つはがして、お兄さんが説明していく。

若鳥は3ヶ月で肉になる。ちゃんとした環境でお肉にするには本来、8000円くらいかかるらしい。「牛も鳥も値段の差なんてない。鶏肉は、早く育つのでエサでコントロールしやすいから安くできるだけ。皆さんが安いと思ってるだけ」と熱弁をふるってくれた。なんか、人間の教育論みたい。

生きたままメンチにされることもあり、それはラーメン屋の鶏がらスープになってるんだとか。

解体された体内を覗き込めば、大小すごい数の黄身があり、衝撃的だった。ある程度大きくなると、よく見る殻が出来上がる前の状態になる。体内にあったその卵を触ってみると、ちょっと固めのスライムのようにブヨブヨで、表面は障子和紙みたいな繊細さだった。絶たれた命に存在していた、おびただしい命の再生産を垣間見れた。

講師の男性は「食べものがどうやってつくられているか。一週間たてば忘れてる。音楽はなくても絶対死なないけど、人は(イベントに)来る。食べものがないと絶対に死ぬのに、『食べもののことを考えろ』って言っても人は来ない。でも、当たり前に若鳥を買うとき、きょう見たことを思い出してほしい。忘れても、ふと思い出すことはできる」

そのあと、切られた足や頭、ササミやたまごをそっとなでてみた。このワークショップだけでも、「橋の下」が目指すものの一端が分かったような気がした。

子どもエリアを奥へ進むと、「デッドストック工務店」の松本憲さんが制作に加わったゲストハウスや、竹を組んだハンモック、ブランコが見えた。公園づくりのヒントになった。

会場をあとにするころには、阿波踊りみたいな音楽が大音量で演奏されていて、自分も手を上にひらひらと動かして、子どもたちと踊りながら歩いた。2時間半前に来た時のアウェー感は、知らん間になくなっていた。

クタクタになって浜松に戻り、晩ご飯を食べるタイミングを失って、近くの「はま寿司」に入った。「食べものがどうやってできているか」、全然わからないものをさっそくいただくことになった。まあ、そうなもんか。さっそくワークショップの講師さんの言葉を思い出すことになった。

ただ、ぐるぐる回るレーンを眺めていると、魚の切り身が泳いでるんだと信じている子どもがいるーーっていう話も、あながちないわけじぇないな、と思えてきた。

 

 

 

 

 

「こだま」のススメ

東京出張からの帰り、八重洲地下街の北海道アンテナショップ「北海道フーディスト」に寄った。有楽町の交通会館にあるアンテナショップより、買い物を楽しむ場という雰囲気は弱いけど、新幹線に乗る前に駆け込むに便利で、できるだけ足を運ぶ。

ここに来れば、道内のどんな地域でなにを押し出しているのか、地味だけどおもしろいものがないか、何が人気なのか、いろんな発見がある。この日は鮭とばスライスと、ハスカップのケーキ、うまい棒みたいな「なまら棒」、焼き下足を買った。いつも通り、できるだけ札幌にはないようなマイナーなものを選んだ。

今日はこだま号にお世話になる。車内では、自分の後ろの席にカップ酒なんて飲まないようなすごく清楚でナチュラルメイクの女性がいて、鮭とばも焼きゲソも、食べるかどうか悩みまくった。新幹線車内での551は許せるかどうか、激しい議論になったことがあったけど、乾物はどこまで嫌がられないのかと悶々としていた。

そうこうしているうちにこだま号は走り出し、となりのスーツ姿の男性は、崎陽軒のシュウマイをむさぼり始めた。ほのかな香りがただよう。明らかに、同調を誘う香りで、カラシの袋が「みんなで食べれば怖くない」とメッセージをこちらに伝えている。

たまらず、右手でプレミアムモルツの缶を開け、左手で鮭とばスライスを手に取った。イカよりもまだ臭いがましかな、と合理的に判断。鮭とばは、一口食べたらチャックを閉めよう徹底して、背中を丸めるようにして食べた。止まらない。ペースアップする。品川駅に着く頃には、ビールも鮭とばもお腹の中に消えた。

仕事ができるくらいに程よく気持ちよくなると、まわりをキョロキョロしてしまう癖がある。ここが大事なのだけれど、心なしか優しい気分になれることが多い。

この日は右斜め前のほうに、子ども2人を連れたお母さんが乗っていた。下の子は2歳くらいの女の子。駄々をこねられてお母さんが通路に立って抱っこしはじめた。女の子は荷物棚にあったカーキ色のボストンバッグを見つけて、「パッパー」といきなり笑顔で指差した。すると、すかさずお兄ちゃんが「おっきいものはなんでもパパって言わないの!」とたしなめる。けっこうな怒気を込めて。文字面だけだけみたらムチャな八つ当たりのようだけど、完全にうちと一緒で、吹き出しそうになった。

わが家の4歳の陽己(はるき)は、妹だからよけいになのか、2歳の七海(ななみ)に向かって「ごはんちゅうでしょ」「歩きながら食べないの!」、と口をギュっと結んで叱りつける。時にすごい剣幕で、指導したがる。数分後に、自分の発言がブーメランになって返ってくる、という点においてはまったく学習能力がない。

「どこも大変だなあ」と気楽にほっこりしていたけど、今まさに大変な思いをしている件のお母さんを遠巻きに見ていて、申し訳ない気持ちになってきた。自分だけビールとつまみで気持ちよくなってて、ごめんなさい。

自分もあるなあ、汗だくで赤ちゃんを抱っこしてる時に、気持ち良さそうにしている夕方のおじさんを恨めしくなったこと。

くだんの親子3人連れは、熱海駅で下りた。下の女の子はベビーカーに乗っている。3人は赤ら顔のスーツ姿のおじさんたちに次々に抜かされ、徐々にスピードを上げた「こだま」にも置いてかれてしまった。心の中で「がんばって!」と応援した。

「こだま」は、いろんな層のお客さんが混じり合う。乗る区間や装いもさまざま。途中の停車駅が多いぶん、たくさんの人の出入りに目を凝らす楽しみがある。「のぞみ」がつまらないと感じるのは、始まりと終わりしか目に入りにくいからでもある。

変わり続けるまち。更新できてない自分。

久しぶりに東京に行ったので、空き時間に新宿で本でも探そうかと、新南口から高島屋タイムズスクエアを目指した。

はじめて生で見た「バスタ新宿」、なんだかよくわからない新しい複合施設・・・。数年前に来た時と景色がかわっていて、巨大なスーツケースを引く外国人の多さにびっくり。駅員さんも尋ねられまくりで、大変だ。

高島屋の横を代々木方面に歩くと、なんだか免税カウンターばかり目に入る。近くの工事現場は忙しそう。これ以上、またなにか造るんですか。落ち着かない。

紀伊國屋書店があったところにやっとこさ着いた。でも紀伊國屋のロゴは見当たらず、あれま、「ニトリ」の文字がドーンと飛び込んできた。

ニトリは北海道がうんだ名企業だから言いにくいけど、わが家でもテーブルやイス、ソファーといろいろそろえましたよ、安いから。お値段以上、とCMで言うので。でも何年もたたないうちに、テーブルの足はガタつき、イスとソファーのクッションがやられ、マシュマロのように沈んでいった。今も沈み続けてます。そのニトリが、なんかオシャレな感じの装いで入居していて、やっぱり免税カウンターをアピールしている。紀伊國屋があった時は和書も雑誌も専門書も洋書もあって、貴重な気持ちのいい空間だったけど、いまここではどんな家具文化を発信しているんだろうか・・・。

探し回ったけど、やっぱり以前のような複数フロアにまたがる紀伊國屋書店はなくなっていた。洋書専門、日本語参考書のワンフロアだけ残っていた。普通に考えて、ほとんどは外国人のお客さんだろうな

オリンピックが近いこととか、訪日外国人がどんどん増えてることがあるんだろうけど、明らかに新南口は数年前と違うかたちになってた。

東京は変わり続けている、すごいなあと思うと同時に、少し恥ずかしくなった。この日読んだ中日新聞の地域面で、ウェブマーケティング会社の女性の言葉に接していたから。いわく、「時代に合わせて自分の考えを更新したり変化に対応することが大切」。たぶん、高島屋の本館を含めて、この界隈で求める客層なんかも数年前とは全然違ってるんだろう。ものすごく変化しているのに、昔と同じように紀伊國屋はそこにあると思い込んでいた。新宿のまちの情報を更新できていなかったし、これほど変化してると思いもよらなかった。ちょっとオーバーだけど、軽くショックだった。

北海道でも、新幹線の札幌延伸とか、オリンピック(選ばれたら、だけど)開催、外国人のニセコからの流出とかで、どんどん変わっていくはず。旭川だって、空港が拡充されてくるから、つねに変わっていく。まちの更新についていけるように、自分も更新していかないと、とてもついていけない。ご飯も食べられない。

それにしても、東京は本当に疲れる。学生時代に4年間もいたことが、まったく信じられない。

初「ロマンス」

生まれてはじめて、小田急のロマンスカーに乗った。

学生時代に東京(横浜)に4年間いたのに、箱根方面にいくときはいつも、運転の練習という名目でレンタカーだった。いつでも乗れるだろうと思っていたら、一度も乗らないまま就職してしまった。

小田原駅から乗り込んだのは2005年登場の真っ白な「VSE」こと50000系。

お披露目された当時、「なんじゃこりゃ」とドン引きしたのを覚えている。

新興宗教っぽい、出っ歯まエイリアンっぽい、鉄仮面みたい。そんな違和感があった。台車や床下部分がカウルされて、ホバークラフトの上に白亜の城が無理やり乗っかったような出で立ちで、あきらかに浮くだろうと思った。今でも岡部憲明さんのデザインはあんまり好きじゃない。

でも小田原駅でホームに滑り込む、上の写真のような角度から実物を見たら、あれ、かっこいいじゃないですか。

なにより、その存在感は圧倒的だった。同じ私鉄の有料特急でも、西武や京成、近鉄や南海なんかとはまるっきり違う。同じく展望車が自慢の名鉄のそれと比べても、別次元に映った。

車内からも観察してみる。展望車両の大きすぎる窓は、さながら超巨大なプロジェクターだった。窓枠(ピラー)のない開放感はすごい。外の景色という映像をあふれんばかりに各席に届け、トンネルに入ればプラネタリウムのようなワクワク感を演出してくれる。

登場からゆうに10年を超えているのに、まだまだ車内外から視線を集めていた。JR西日本の500系新幹線みたいな感じに。おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんと一緒に乗り込んだ3歳くらいの男の子は「たまらん」という顔を浮かべていた。

シートはお世辞にも座り心地が良いわけでもなく、特段快適な設備があるわけでもない。でも、「ロマンスカーに乗っている」、という特別感は確かにあった。

箱根といえば温泉、湖、山とすぐイメージがわく。映像と結びつく。

ロマンスカーは、誰もが共有している箱根のブランド力に直結するんだろうし、「ロマンスカーに乗る」という体験そのものが、手に届く非日常の観光資源になっている気がする。1957年から脈々と走り続けてきたロマンスカーの強さなんだろう。

一平と三平の、ちょっと味なラーメンの話

ゴールデンウィークに北海道にいったとき、毎日ラーメンを食べることを自分に課した。

味の一平の特製(確か)みそラーメン

旭川、札幌、函館。それぞれ醤油、味噌、塩が有名だけど、なんでそうなったかはいろんな歴史があるし、文化としてまちに根づいている。だからそれを知っておこうと。

というのはうそで、旅行中は大所帯(7人)だったのもあって、嫌いな人がいなくて簡単にお店を選べて、食費もおさえられるから。

新潟から乗った行きのフェリーでは海老味噌ラーメンと塩ラーメン、旭川で飲んだ後には旭川ラーメン(しょうゆだと思うけど酔いすぎて覚えてない)、帰りに苫小牧東港に行く途中には千歳市で味噌ラーメンをいただいた。

いちばんよかったのは、千歳市の「味の三平」。

大学生のころ、高校時代の同級生を連れて卒業旅行を第2弾をやった時、貸し切りでお世話になったバスガイドさんがいま千歳市に住んでいて、その方に教えてもらった。いつも並んでいて、仕事のない日にしかいけないくらいの人気だそうな。ガイドブックとかに載っているのかは知らないけど、地元の人に愛されているのは間違いない雰囲気がプンプンしていた。

スタッフは全員が女性。6~7人くらいはいたはず。

けっこう熱いスープはほどよく濃厚で、ふんだんに盛られた、香ばしい野菜とバツグンに相性がいい。しかも変にくどくない。油がいいんだろうなー。縮れ麺は適度な太さでコシがあり、一口一口、噛みしめるように喉を通すことができる。コシはあっても麺がスープに負けていない。なかなか冷めないのもあるけど、時間をかけて食べたい気持ちにさせてくれる。今まで食べた味噌ラーメンで最高の好みだった。

静岡に帰ってから、毎日新聞の「麺食い 列島味便り」という記事を読んで、札幌味噌ラーメンが紹介されていた。「あっ、ここ行った行った!」と喜んだのもの束の間、よく見たら味噌ラーメンの元祖として書かれていてのは「味の三平」だった。

紛らわしい。。。姉妹店かとおもいきや、そうでもなさそうだし。

「一平」はホームページをさっと探しても見つからず、ストーリーとか女性だけでオペレーションする理由とかは謎のまま。

一方の「三平」はといえば、毎日新聞によると、旧満州で満鉄の乗務員をしていた大宮守人さんが創業。2代目のご長男によると「おなかがいっぱいになって栄養が取れて元気になるラーメンを」という思いがあった。戦地では東北や北陸の出身者が、保存食として焼き味噌を持ち込んでいたらしく、守人さんは「味噌を食べると健康になる」とスープに使うことを思いついたんだって。有名な西山製麺さんと一緒に、濃厚なスープにあう麺を一から開発して、讃岐うどんの本場も訪ねて研究したんだとか。

終戦後ならではのストーリーが泣かせるし、コンセプトが明快。

三平の店内はカウンター13席しかなく、目が届く範囲の対面にこだわっているそう。2代目の〆のコメントが秀一。「客との交流を通じて少しずつ変化している。今のみそラーメンを守るのではなく、時代に合ったものにしていかなければ」

かっこいい!これだけで即食べたくなる。

「一平」はどんなストーリーがあるんだろう。美味しくいただきながら、時間をかけて掘り起こしていうのも、また楽しからずや。旭川にもそんな店が待っているきがする。